対談・講演

強みを活かせるブランド戦略を展開したい

第六代TKC全国会 粟飯原一雄会長に聞く

とき:平成24年8月28日(火) ところ:TKCゲストルーム

平成24年7月12日開催の第140回TKC全国会正副会長会において、全員一致で第六代TKC全国会会長に選任された粟飯原一雄新会長に、 TKC会員としての歩み、 飯塚毅全国会初代会長との出会い、全国会活動への取り組みについてうかがい、会長就任の抱負を語っていただいた。

◎インタビュアー 会報「TKC」編集長 石岡正行

巻頭インタビュー

TKK副社長に任命され重圧を感じながら議長を担当した

 ──粟飯原一雄先生は、第39回TKC全国役員大会が千葉・幕張で開催された7月12日に、第六代TKC全国会会長に就任されました。あらためまして、おめでとうございます。現在の率直なご感想をお聞かせ願えますか。

TKC全国会会長 粟飯原一雄

TKC全国会会長
粟飯原一雄

 粟飯原 本当にいま、その責任の重さを強く感じています。
 私が、TKC全国会の会務に参加するようになってから、これまでで一番精神的にプレッシャーを感じたのは、平成4年から7年のことでした。当時は、すべて全国会会長の任命人事でしたから、この期間、飯塚毅先生から様々な役職を任命されました。ニューメンバーズ・サービス委員会と戦略特別委員会の初代委員長、その前には、TKK(TKC金融保証株式会社)の副社長の任命も受けました。
 特に、TKKの副社長は、大変な役職でした。私が取締役になったのは平成3年ですが、そのときの社長が飯塚毅先生、副社長が関信会の奥山素章先生でした。奥山先生が、平成4年に副社長を退任され、後任を決めることになり、その年の8月の取締役会の席上で、飯塚先生がいきなり私を任命されたのです。

 ──どんな心境でしたか。

 粟飯原 そこには、まさにTKKの草創期の地域会会長が一堂に会しているわけです。飯塚事件で尽力された大野正男弁護士もいらして、そうした錚々たるメンバーに囲まれている中で、針のむしろに座っているように感じました。一年坊主の取締役を副社長に任命して、これから取締役会の議長もせよというのですから。
 なにしろ経営会議ですから、不規則発言もどんどん出てくる。議長として、終了時間を厳守するようにと指示されているわけですが、会議は終盤になればなるほど議論が燃え上がってくる。そんなときに、「本日は時間切れでございます」などと言って、先輩方の話の腰を折るわけにもいきません。私のような経験不足の若輩者が、議論をソフトランディングさせていかなければいけないという重圧は、凄まじいものでした。
 経営会議終了後、進行がうまくいった日はまだいいのですけれども、うまくいかなかったときに、飯塚毅先生から「アメリカのイリノイ大学のジョーンズ教授が、リーダーの条件を示している」と一言だけ言われるんです。それについての解説は一切ありません。その日の進行がなぜ悪かったのか、ポイントを押さえた課題を示され、次の会議までにしっかり勉強しておきなさいと、宿題が与えられる。それで、家に帰ってすぐに調べて勉強するわけですが、これを実行に移すことは容易なことではありません。ちなみに、ジョーンズ教授のリーダーの条件には、「直観力を養え」とか、「イエスかノーかはっきりしなさい」ということが書かれています。
 このころ感じていたのは、飯塚毅先生がおられることの重圧でしたが、いま、TKC全国会会長になって感じているのは、飯塚先生がいないことの重圧です。
 先生がいないからといって、甘えは絶対に許されません。お引き受けしたTKC全国会会長としての重圧は大変なものですが、全国会創設の理念をしっかりと胸に刻み、巡回監査をすべての活動の中心に据えて、全国会の歩むべき方向をしっかりと見極め、全国会の発展、税理士の社会的地位向上のために、全身全霊で頑張ろうと思っています。

大学院博士課程を断念して税理士資格に挑戦、35歳で独立

 ──若い時分から重責を担われてきたわけですが、そもそも税理士になろうと思われたきっかけは何でしょう。

 粟飯原 最初から税理士になろうという気持ちはありませんでした。伯母の家がテーラーを大きく商っていましたから、学生時代はよく手伝っていたこともあり、テーラー職人にでもなろうかなと考えていました。
 けれども、高等学校を卒業するころに、父が脳梗塞で倒れてしまったんです。テーラーという仕事は、丁稚奉公の世界ですから、修行には長い時間がかかります。しかも、見習い期間はお小遣い程度しか貰えません。家族を養うなどできないわけですから、テーラー職人を諦めるしかありませんでした。
 そこで、民間企業に急遽、就職する道を選んだのです。しかし、何年かするうちに、このままじゃだめだなと思いました。

 ──と言いますと……。

 粟飯原 大手は大体そうですが、学閥で将来が左右されてしまいます。自分のこれからの人生が決まっているようなものだから、おもしろくありません。とはいえ、生活もあるので、働きながら中央大学商学部の夜間に4年間通いました。
 そのうち、大卒でも大した出世は見込めないと自覚し、大学院に行って、大学で教鞭を執ろうと考えるようになりました。それで26歳で会社を辞めて、同じ大学の大学院に進みました。
 いまの大学院は、勤務しながらでも通えますが、当時はそうではありませんでした。最終的には日本大学大学院に鞍替えし、博士課程まで進むのですが、途中でリタイアしてしまいました。すでに3人の弟は独立していましたが、父は病気でほとんど働けず、母親の面倒もみなければいけなかったので、生活が成り立たなくなったのです。それで、自分の勉強が一番役立ちそうな会計事務所に勤めることにしました。
 事務所に入ると、職員が全員、税理士試験の勉強をしていて、刺激を受けて勉強をはじめました。修士課程を卒業していたので科目が免除され、税法3科目にチャレンジして、2年後の32歳のときに税理士資格を取りました。実務の経験もしっかりと積んでおきたいと思い、その後3年間勤務し、35歳の誕生日を期に独立・開業しました。

心に響いた初代会長の実地講習会「社外重役たれ」の教えを実践

 ──開業当初の状況を教えていただけますか。

 粟飯原 当時はコンピュータ黎明期で、いろいろなソフト会社がありました。自分でもソフトを組む勉強をしていたので、自分でやるか、あるいは大手のシステムベンダーのところに身を置くか、考えていました。そんなとき、オリベッティの社員がTKCに入らないかと足繁く説得しに来ました。けれども、1~2か月間、抵抗したのです。

 ──入会の決め手はなんでしたか。

 粟飯原 現TKC相談役の飯塚容晟さんの訪問です。私は当時、帳簿会計に慣れていたので、伝票会計が好きではありませんでした。しかし、容晟さんから、「三枚複写伝票のほうが、はるかに間違いが少なく、事務所の合理化が図れる」と説得されました。
 さらに、「TKCは、会員のさまざまなニーズについてシステム委員会を通して取り上げる。これから会計の分野でも、コンピュータがどんどん進化する。その中で、自分達の考えが、システムにしっかり反映できるというのは、大きなメリットではないか」と言われました。この説明が、私がTKCに入る決定的なきっかけになりました。

 ──それから飯塚毅先生のセミナーを受けたわけですね。

 粟飯原 そうです。実地講習会に参加して、もの凄いショックを受けました。
 当時は、なにしろ帳簿会計全盛で、起票代行が当り前でしたが、飯塚先生は、これを真っ向から否定するわけです。
「関与先に問題があって、裁判所で証拠性が問われたとする。会計事務所が起票代行をしていて、それが不正に絡んでいたら、先生の責任が問われる。事務所も閉鎖に追い込まれる。だから、起票代行だけは、絶対にしてはならない」と。
 それを聞いて、「なるほど、事務所経営の哲学はここにあるんだ!」と感激したことは、いまでも忘れられません。
 また、「1週2点改善運動をしなさい」というのにも驚きました。「1年は50週ある。1週に2点を改善すれば、年間で100の改善ができる。事務所がどんどん合理化されていく」という話でした。それで、実地講習会でもらった『電算機利用による会計事務所の合理化』テキストを家に持ち帰って、何度も何度も読み返しました。
 早いものでそれから40年、今日までTKC一筋できていますが、私の原点は、あのとき飯塚毅先生が語ったお話と、「合理化テキスト」に書いてあることそのものにあります。
 実地講習会のときに、もう一つ感激したのは、「税理士は、関与先に対して町医者的態度をとりなさい」という教えです。「われわれ税理士は、指導者である」という言葉が心に響きました。
 いまは「中小企業のビジネスドクター」という表現をしていますが、実地講習会では、飯塚先生は「社外重役」という言葉を使っておられました。社外重役の役割を担って、関与先の経営者と一緒になって将来を語る。つまり、経営計画を作って将来を見据えた支援をしなさいとおっしゃっていました。

 ──起票代行をしていたら、会社の将来など語れませんね。

 粟飯原 当時、私の関与先は3件しかありませんでしたが、すぐに3人の経営者に対して、「今後、起票代行はしません。その代わり、社外重役としての役割を務めさせていただきます」と宣言しました。そのうちの2人は「ぜひお願いします」と快諾してくれましたが、もう1人からは、「おれは経営のプロだ。経営について、いちいち指図されたくない」と言われました。
 そして、40年してどうなったかというと、社外重役をやることになった2社は、当時は小さな会社でしたが、いまでは大発展を遂げています。しかも、二代目の経営者が大きな事業形態にしています。
 一方の私の申し出を断った会社は、まだ存続はしているけれども、厳しい経営状態におかれています。
 このように、当時、飯塚毅先生が言われたことを、そのまま素直に受けとめて、すぐに実行したことが、私の事務所経営の基本になっています。

会員同士の切磋琢磨で心が磨かれ事務所が発展する

 ──TKC入会後、いろんな役目をお務めになるわけですね。

 粟飯原 そうなんですが、決して最初から優良会員ではなかったということだけはお伝えしておきたいと思います。
 確かに、飯塚毅先生の話は衝撃的だったし、素直に受けとめなければいけないという思いでやっていました。「合理化テキスト」も、何十回と読んでいたわけですが、そのうち、スリーピング会員になってしまいました。

 ──TKCの会務活動に参加されなかったということですか。

 粟飯原 そうです。千葉会から、研修やいろんな会合のお誘いを受けましたが、ほとんど参加しませんでした。そのような時期が7年くらいありました。「合理化テキスト」を読んでいれば、やっていけると考えていたんです。
 そんな私に、転機がおとずれました。あるとき、興味をひかれたTKCの研修にたまたま出席すると、後ろからポンポンと肩をたたく人がいる。それは、私とTKCに同時に入会した関豊先生でした。
「粟飯原さん、なにやってんのよ。会合や研修の誘いを断って、全然出てこないで。それじゃ、TKCに入った意味がないじゃない」と叱られました。
 研修が終わって、関先生にいろいろな話を聞きました。彼もゼロに近い段階から事務所をスタートして、お客さんを40~50件抱えているということでした。それに比べて私の事務所は、20件程度のレベルで全然発展していませんでした。
「ああ、俺は間違っていた。あんなに素晴らしい飯塚先生の話を聞きながら、どうして一人ぼっちの、孤立した事務所経営をしていたのか」と後悔しました。
 それで早速、ときの千葉会会長の宮﨑健一先生にお電話して、「私にも何か、お手伝いさせてください」とお願いしたのです。半年くらいして連絡があって、「今度、寺田昭男先生が、『TKC会報』の編集長をやることになって、千葉会の広報委員長をできなくなった。ついては、後任を君に務めてほしい」と、こう言われました。
 広報の経験がまったくありませんでしたから、一瞬お断りしようと、言葉が出かかったのですが、自分からお願いしていて、経験がないからと断るというのは、あまりにも失礼ではないかと踏み止まりました。
「わかりました。でも先生、私には広報の経験がないんです。いろいろ教えていただけるのなら」と、お引き受けすることにしました。
 それから寺田先生には「宮﨑先生から、君を教育してくれと頼まれた」ということで、文章の作り方から写真の撮り方まで、広報のイロハを学びました。
 例えば、飯塚毅先生の講演中の写真を撮るときなど、どうしても腰が引けてしまって全然近寄れない。すると、寺田先生が飛んできて、「もっと迫れ!1メートル先まで迫れ!」と、私の体を後ろからグイグイ押され(笑)、それでもなかなか迫れなかったということがありました。
 こんな調子でしたが、そうこうしているうちに会務に没頭し、本当にいい経験をさせていただいたと思っています。

 ──振り返ってみて、どうしてスリーピング会員になってしまったと思いますか。

 粟飯原 組織活動のなんたるかがわかっていなかったからでしょうね。でも、孤立した経験があるから、ニューメンバーズ・サービス委員会を作ろうと思ったんです。
 千葉会会長として、はじめての全国会の会議で発言したのがこのことでした。入会したての会員をしっかりフォローする体制を作って事務所経営を軌道に乗せるお手伝いをすれば、私のようなスリーピング会員は生まれないというのが、その発想の原点でした。
 そのときから比べると、現在は組織活動が充実していて、いまのニューメンバーズ会員の皆さんは、本当に幸せだと思います。やはり、お互いが切磋琢磨する組織活動の中で人の心が磨かれ、それが事務所経営にとっても大きく役立つのではないでしょうか。

指導者として悩み苦しみ早朝の水浴びと坐禅を10年継続

 ──その後、TKC千葉会会長を11年務められたわけですが。

TKC全国会会長 粟飯原一雄

 粟飯原 平成3年に、宮﨑健一先生の推薦を受けて、千葉会の会長を務めるのですが、その年の11月に、飯塚毅先生の茅ヶ崎のご自宅に、ご挨拶にうかがいました。お会いするなり開口一番に言われたのが、ドイツの大哲学者ニーチェの言葉でした。
 それは、「人間社会において一番偉大なことは何であるか。偉大さとは人々に方向を与えることである」というものでした。しかしそれまで私は、TKC全国会の方向は、飯塚先生が常に指し示してくれるのだから、われわれは、その担い手になればいいというくらいの浅はかな考えしか持っていませんでした。それが見透かされていたんです。
 その後、飯塚先生から、「仲間の顔を見た瞬間、その人の額の後ろにいま何があるか、直観的に感じなければいけない」と聞かされるわけですが、まさにこのことなのだと思います。「お前は、指導者としての自覚はもっているのか?」と、最初に問われてしまった。私は、そこで茫然としました。それから、「その問いにどう答えたらいいのか。全国会副会長、地域会会長として、なにができるのか?」と、悩みに悩む日が続きました。
 それでなにかをはじめなければいけないと、飯塚先生の著書を毎日かたっぱしから読みふけりました。その中で感じたことがあります。いまさら飯塚先生の若いときのように、原書を1日100頁読むことはできない。禅寺に入って修行する時間もない。しかし、先生が自分の精神を強くするために行っていたという、水浴びならできそうだ。それから実践してみようということで、毎朝5時に起きて、水浴び30杯と、身を清めたあとに「般若心経」を唱え、40分の坐禅を日課にしました。これを10年間続けました。

 ──変化はありましたか。

 粟飯原 次から次にいろいろな役職に任命される中で、当初は頭の中がパニックになりましたが、毎日水浴びをすることで、自分の心がだんだん落ち着いてくるのがわかりました。もし、なにもしていなかったら、精神的にまいって、「もう辞めます」と引き下がるか、病気になるか、どちらかだったと思います。

「成功の鍵作戦」の体験と成果がいまの全国会活動に活かされている

 ──TKC全国会活動の歴史の中で、平成11年にスタートした「成功の鍵(KFS)作戦21」は、大きな転機になったと思います。戦略特別委員長として、この運動を企画推進されたときには、どんなご苦労がありましたか。

 粟飯原 戦略特別委員会では、委員会の再編成や研修制度の改革など、いろいろな活動を実施しました。そうした中で、バブル崩壊後、7~8年経って、関与先が減少したり、顧問報酬の引き下げの要求があったり、事務所経営を取り巻く環境が厳しくなっているという話を耳にすることが増えてきました。
 その危機感から平成10年の春、中小企業を昔のように元気にするには、われわれTKC会計人としてなにをすればよいか、戦略特別委員会で議論するのですが、限られたメンバーでは問題が大きすぎるということになり、メンバーを拡充し、ご案内のような全国会はじまって以来の組織横断的な大きなプロジェクトが立ち上がったのです。

 ──その効果は、いかがでしたか。

 粟飯原 抜群でした。通常は、地域会会長には委員会に入ってもらうことはないのですが、九州会会長だった松本健司先生にも加わっていただきました。先生からは「集団活性化の5原則」という知恵をいただき、その発想力に救われました。
 なにしろ、3年間でKFS10万件の目標は、当時としては大変大きな数字であり、会員の皆さんが、果たしてついてきてくれるのか、本当に悩んでいたところでした。

 ──ネーミングも斬新でしたね。

 粟飯原 疲弊しつつある中小企業を支えるというだけではインパクトが弱い。しかも、全会員を引っ張って、絶対に成功させなければいけない。それを実現させるくらいのパワーをもつネーミングが必要でしたが、これには本当に苦労しました。喧々諤々の議論の末、ギリギリのタイミングでアイデアを捻り出してくれたのが、TKCの飯塚真玄会長でした。
「Key Factor for Success」という英語のフレーズの頭文字をとって、Kを継続MAS、FをFX2、Sを書面添付の推進にあてはめるという斬新なアイデアでした。それを聞いて、雲が晴れたように、「それでいこう!」と全員が一致しました。本当に救われた思いでした。

 ──実際に、この運動は全国に広がって盛り上がり、実績も飛躍的に挙がって大成功しました。その勢いを受けて、平成15年には、第2次成功の鍵作戦がスタートしましたが。

 粟飯原 第2次成功の鍵作戦のきっかけとなったのは、平成13年のTKC全国役員大会式典での、ときの平沼赳夫経済産業大臣のスピーチです。「TKC全国会は、日本の経済力の源である中小企業を支援する活動を展開しており、頼もしく思います。平成11年に、中小企業経営革新支援法ができたものの、その承認企業がなかなか増えなくて困っています。ついては、皆さんに、ぜひ経営革新の承認企業を増やす支援をいただきたい」という呼びかけがありました。
 そこで、この期待をしっかり受けとめようという話になりました。やるからにはそれまでのような活動だけでは限界があった。クライアントである中小企業に、経営革新、つまりイノベーションを促していくわけですから、それを支える職員を含めたわれわれのスキルも、さらに向上させなくてはならない。ということで、創業・経営革新支援委員会が平成14年に発足されるわけです。

 ──同委員会初代委員長に就任され、経営革新支援にむけての研修会が充実して、実際に、法に基づく経営革新計画の承認件数も増加しました。

 粟飯原 この第1次、第2次成功の鍵作戦で培ったTKC全国会のパワーが、そのまま今日の諸活動に活かされています。会員が、組織活動のリーダー的な役割を、随所で発揮してくれるようになったのは、非常に大きいと思います。

巡回監査を全活動の原点と捉え骨太の方針をまとめたい

 ──TKC全国会は昭和46年8月に結成され、昨年40周年を迎えたわけですが、粟飯原会長は、今後の課題について、いかがお考えでしょうか。

 粟飯原 課題が山積しているように思います。組織は、作ったときが最高に機能しますが、時代が進むにつれて、徐々に制度疲労してくるといわれます。
 全国会会長に就任して、早速着手したのが9つある委員会の委員長との面談です。そこで感じたことは、第1に、委員会活動において縦割りの機能が強く、セクショナリズムになっていないか。第2は、今日的な時代に対応できているのだろうか。第3は、将来にむけての理念研修と「TKC会計人の行動基準書」に関する講師の育成がなされていなくてよいのだろうか、という課題です。
 二宮尊徳も「遠くをはかる者は富み、近くをはかる者は貧す」と教えてくれています。中・長期の発展に備えた人材育成をしない組織は、必ず崩壊すると思います。
 すでに、これらのことは、全国会常務会に報告しており、担当委員長にも指示していますが、課題解決にむけて、委員会だけに止めず、全国会全体の課題として早急に検討したいと思っています。

 ──この厳しい時代を乗り切るためには、将来に向けて進むべき大きな方向性をあらためて定めておく必要があるということですね。

 粟飯原 平成の世になって、毎年、廃業率が開業率を上回る時代が続いています。総務省の発表によれば、平成3年の個人事業者を含む中小企業数は約680万社ありましたが、20年後の平成23年には、企業数が推計で380万社に減っているということです。このように、全体のパイが、どんどん縮小しているのです。
 そういう状況の中で、会計事務所が生き残っていくためには、どうしたらいいのかという大きな命題がいま、われわれには突きつけられています。これからの10年というスパンを捉えて、TKC全国会として準備しておくべきことは何なのか見定めて、戦略と戦術を展開しなければいけません。これを早くしておかないと、いずれ集団死滅のときを招きかねないと危惧しています。
 第六代TKC全国会会長としての役割ですが、会計事務所経営の実務経験に加えて、TKC全国会のさまざまな役割における経験を活かした「現場力」を最大限に発揮するプロデューサーとしての仕事をさせていただくことであると認識しています。
 まずはこれからの10年、TKC全国会というブランド力を最大限に発揮できる体制を作るためにも、全国会が歩むべきグランドデザインと具体的なアクションプランを策定したいと思っています。

 ──最後に、全国のTKC会員へのメッセージをお願いいたします。

 粟飯原 巡回監査は、TKC会計人として当然の基本業務でありますが、しかし、いまだ定着していないという実態があります。すべての委員会がそれぞれの活動で一番の課題としています。このことを真剣に受けとめ、巡回監査をすべての活動の原点として捉え、委員会や支部活動を含めて、全組織の共通課題として取り組ませていただきます。
 また、今年2月に公表された「中小企業の会計に関する基本要領」をベースにした「中小企業経営力強化支援法」への対応を強く求められているなど、やるべき課題が多くあります。先頭に立って、こうした課題に取り組んでまいりますので、会員の皆さんも、これまで以上に力を合わせていただきたいと思います。

粟飯原一雄◎あいばら・かずお

千葉県千葉市出身、昭和12年生れ。昭和39年中央大学大学院商学修士修了、41年日本大学大学院博士課程中退。【経歴】45年税理士登録、47年事務所開業、48年TKC入会、平成3年TKC千葉会会長、14年TKC金融保証(株)取締役会長、16年税理士法人Taxジャパンちば代表社員、18年(株)TKC社外取締役。【全国会役職】平成4年ニューメンバーズ・サービス委員長、5年戦略特別委員長、14年社会福祉法人研究会幹事、同年創業・経営革新支援委員長等。【趣味】ゴルフ、トレッキング、映画・音楽鑑賞、囲碁(初段)。

(構成/TKC出版 古市 学)

(会報『TKC』平成24年10月号より転載)