1997年1月号Vol.2

【戸籍こぼれ話】複数婚から一夫一婦制へ

地方公共団体事業部第二業務部長 石井利光

 西暦5~6世紀頃に日本のことについて書かれたといわれる中国の史書『陏書倭国伝』に、〈倭国には文字なしただ木を刻み、縄を結ぶのみなり、仏法を敬す。百済に於いて仏経を求得し、初めて文字あり〉と書かれています。

 また、この書物以前に日本について書かれたものに『魏志倭人伝』がありますが、この本には2~3世紀ころのことが書かれており、〈日本では百余国にわかれ各国間の争いが永く続いていたが、邪馬台国の女王卑弥呼によって統合された。この統合された国の数は29国であり東国は統合されなかった〉とあります。統合されなかったというよりも統合する必要がなく、また統合するだけの力も無かったのではないでしょうか。邪馬台国がどこにあったのか、畿内か九州北部か盛んに議論されていますが、当時、日本に文字があれば記録として残っており議論の余地の無いところだったでしょう。これは当時の日本に文字がなかったことの証左となるのではないでしょうか。

 さて、卑弥呼が没した後しばらくすると、また国が乱れ離合集散が繰り返されましたが、4世紀ごろから大和政権が力をつけ統一した国が生まれたと考えられます。この間の3世紀半ばを過ぎたころ、朝廷に百済から献上物がありました。この時、王仁という秀でた学者がいると聞き、朝廷は人を遣わして彼を招へいしました。この際に王仁がもたらした文献が日本最古の書物といわれています。この時代はまた中国、朝鮮との交流も活発になった時期で、多くの文物が日本へ流入してきたことは想像するに難くありません。

 645年、中大兄皇子、中臣(後に藤原と改名)鎌足等によって蘇我一族が滅ぼされ大化の改新が成ると『改新の詔四条』が発せられました。その第1が「天皇の屯倉、御子代、豪族の田荘など従来は私的所有となっていた土地を国有とし班田収授法の実施の資とする」、第2に「国の行政組織の整備」、第3が「戸籍、計帳、班田収授法」、第4に「租税=租・庸・調」を定めると宣言したのです。改新の詔を受けて20年後に『近江令』が制定され、その中に戸籍に関することがあります。この時に作られた戸籍が『庚午年籍』と呼ばれ、永久保存するようになっていたようですが、残念ながら現存しているものはないようです。

 その後、50年ほどして『大宝律令』が、その約15年後には『養老律令』がそれぞれ制定施行され、戸籍と戸籍登録の前提となる身分行為のことなどが定められました。この頃〈我が水軍が唐の水軍に敗退した〉との記録があり、規則を制定した背景には“国内の人心の安定”に加えて“他国との地位を確保する”意味もあったようです。この戸籍は6年ごとに作り替えられ、同じ年に班田も実施したといわれています。何回ほど作り替えたのかは不明ですが、670年の『庚午年籍』を初めとして689年に1回目、702年に3回目(この戸籍が現存する最古の戸籍です)、714年に5回目、720年に6回目の編纂が行われたらしいとの記録があります(講談社選書メチエ万葉びとの「家族」誌)。これらの戸籍のいくつかは、現在でも正倉院御物として保管されています。

 ところで、当時の国民の生活実態と律令との間には、どうもギャップがあったようです。婚姻制度についても当時は一夫多妻であったのに、これを一夫一婦制とし、その逃れ道として最初に娶ったのが妻、次からは妾と呼び、戸籍にもこのように記載して同籍させるという手段を取りました。律令前には最初の妻が“こなみ”その他の妻は“うはなり”と称されていましたが、どちらも妻であることには変わりはなかったようです。この一夫多妻の制度を魏志倭人伝では〈其俗国大人皆45婦下戸或23婦=その国の習俗 貴人は妻を4~5人、庶民でも2~3人を持つ〉といっています。一夫一婦制が他国の制度を模写したといいながらも、制度として設けられたことは画期的だったといえるのではないでしょうか。

 この一夫一婦は、制度的には江戸時代においても守られていました。江戸時代では、正妻以外は“妾奉公人”といわれ妻ではなく奉公人の地位であったようです。ただ妾がその家の跡取りを産むと正妻が嫡母・子を庶子と呼び、妾の方も優遇されたようです。

 この離婚は、律令の中では七出、三不去といわれ、七出とは「無子、姦通、舅姑に事えず、口舌、窃盗、嫉妬、悪疾」、三不去とは「舅姑に仕え喪を持くることを経たるとき、娶るとき賤しくして後貴きに至る、帰する所無きとき」とされていました。離婚のことを“棄妻”といい、その手続きは棄妻の旨を手書して届書を作り、両家の尊属近親の連署を得て届出する。また、もし夫が字を書けないときは画指(人差し指の長さと関節の箇所を描くこと。指紋の代わりだろうか……)したということです。

 これが明治になって、妾の地位は奉公人から妻と同じ地位に格上げされたようです。というのも明治初年の親等図をみると、妻と妾が同じ親等の二親等とされているからです。この状態は明治14年末まで続きました。

参考文献:文中で引用したものは除く
     「日本歴史叢書4 日中律令論」
     「家族問題と家族法・結婚」
     「日本史・別巻2」
     「体系日本史叢書4・法制史」

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