1997年4月号Vol.3
【戸籍こぼれ話】明治初年の妻と妾
地方公共団体事業部第二業務部長 石井利光
婚姻と言うと難しく考えがちですが、結婚というと何か身近に感じるのではないでしょうか。「婚」の字の意味の中に「暗い夜に、女性と結びつくことを意味する」と物の本に書いてありました……。
ついでにこの本の中でいくつかの面白い言葉がありますので、紹介しましょう。〈「嫁に行く」「嫁を貰う」と言うが、貰うとは物に使う言葉でこれ程人格を無視した言葉はない。「息子」という言葉も「親が息をつくための子」で男の子に使われてる。親が息をつくとは、親が負担を背負わされることが含まれている事になる。「娘」の字は女は美人であることが生命であるから良い女となる。「父、母、嫁、姑、兄、弟、姉、妹」これらの言葉も語源を考えると、男女の生活に使われている言葉の歴史というか重みというか、考え込まざるを得ない〉(ジュリストNO525・1973・2・1)
とまぁ概略このように述べています。
これまで述べたことが標題のことと関係があるかと言えば、おっしゃる通り、関係はないようです。ちょっとした口直しとお考えいただけないでしょうか。
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明治維新は従来の幕藩体制を崩し、富国強兵を目的とした強力国家を創造することを主眼にしました。このためには、国の権力の一極集中すなわち中央集権国家を創ることが優先されなければならないと当時の為政者は考えたのです。
そこで、国の基礎となるもの、人・領土・主権の3つの内政権については、一応は幕府から天皇に奉還されたので、薩・長・土・肥の合議政権ができたのですが、新政権が生まれたとはいえ、思惑の違う人たちが自己の属する地域をいかに有利に導こうか、藩主の顔も立てたい、そうかといって出しゃばり過ぎてもらっては自分たちの思っている政権は樹立できないと逡巡していたのではないでしょうか。
しかし、このような中にあって、明治3年12月に養老律や御定書百箇条を参酌して新律綱領を公布し、国民生活の安定の基を作りました。公布したといってもこの には「朕、形部ニ勅シテ律書ヲ改撰セシム。乃チ綱領 六巻ヲ奏進ス。朕、在廷諸臣ト議シ、以テ頒布ヲ允ス。内外有司、夫レ之ヲ遵守セヨ」とあり、人民一般に知らしめたものではなく有司を対象としていたもの。つまり、この頃の法律は、江戸時代の奉行による裁判の基となる御定書などと同じで、有司の拠るべき規則で人民へ知らされた規則ではなかったと言われていますが、この綱領の中に親等図が設けられました。この図がいわゆる『五等親図』です。この図は大宝・養老律に真似たため、妻と妾が同一の親等の二親等とされ、俗に「妻妾二親等」と言われています。
次いで人の把握のための規則として明治4年4月「戸籍法」が公布され、翌5年2月1日から施行されました(明治5年が壬申の年であったことから、この時に編製された戸籍のことを「壬申戸籍」と呼んでいます)。
ちなみに、同じ明治5年、政府は地租改正の前段階として、地所永代売買の禁止を解除し、地租改正への足がかりとしました。地租改正は明治6年から開始され、田・畑・宅地は明治9年に、その他の土地は、明治14年までかかって完了したと言われています。
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ところで、当時の家族制度、婚姻制度については、明治新政府になったからといって急に転換することはできません。旧来の生活習慣を尊重しながら改革するのでなければ国民は受入れてくれません。為政者もどの様に改革すべきかについては、相当苦慮したものと思われます。
その残存物のひとつが「妻妾二親等」ではないでしょうか。ですから明治4年戸籍法の中には、妾は戸籍に記載されるのかは規定していません。次のように指令で妻の次に妾として戸籍に記載することを認めました(ほかにも同様の照会、回答があります)。
明治五年四月二十日内務省指令
明治四年七月一日旧伊那県伺い
伺い 戸籍同列次ノ内妾ノ名目無之候得共次男妾腹ト有之臣民一般妾ノ称号 不 苦 候哉 又ハ身分ニ寄リ候哉指令 書面臣民一般妾ノ称号不 苦候 事
妾制度は、前号でも述べたとおり、明治14年まで続きました。
参考文献:文中で引用したものは除く
明治前期身分法大全第一巻
講座日本近代法発達史3
家族問題と家族法2結婚
体系日本史叢書4法制史
掲載:『新風』1997年4月号