1998年1月号Vol.6

【特別インタビュー】行政リエンジニアリングをいかにして為し遂げるか

~21世紀に向けた町づくり~

鹿島台町 鹿野文永町長 / 聞き手 本誌編集人 小林 薫

21世紀が目前となったいま、地方行政には未曾有の大変革が求められている。そんな中で、どんな“町づくり”を目指せばいいのか。23年の長期にわたり、トップとして行政運営に手腕を発揮してこられた鹿島台町・鹿野文永町長に話を聞いた。

所在地
宮城県志田郡鹿島台町平渡字上戸下26の2
電話
0229-56-2511
人口
1万4225人(平成9年10月末現在)
面積
54.05平方キロメートル

──行政改革、財政再建など市町村が抱える課題が山積となっていますが、鹿島台町ではどのような町づくりをお考えなのでしょうか。

鹿野 私が町長に就任したのは1975(昭和50)年ですが、その頃から21世紀に向けて高齢化、情報化、環境・エネルギー問題にどう取り組んでいくべきか議論されていました。それから25年が過ぎて、高齢化と情報化はすでに現実の世界となり、これに国際化というテーマが加わりました。そして、25年前には誰も予想しなかった少子化という問題もクローズアップされています。そんな時代背景を踏まえた上で、今後の鹿島台町がどうあるべきか考えなければならないでしょう。

水との戦いが培った鹿島台町の“百折不撓”精神

──高齢化社会に到達した現在、住民のニーズはますます多様化していくばかりですが。

鹿野 単に高齢化への対応だけを考えると、財政やマンパワーをどうするかなど問題が複雑化します。町全体のパイ──人材や財政、あるいはその他の社会資本をどれだけ大きくするか考え、その中で高齢化問題もとらえるべきでしょう。いま鹿島台町では“水害に強い町づくり”を進めています。これは国と県と町・地域住民とが三位一体となって、新しい町づくりをしようというものです。水害で困るのは住民や地域産業であり、水害に強い町をつくることで、たくさんの人に住んでもらえる町、ひいては高齢者に優しい町につながると考えています。

──最近では、昭和61年夏に記録的な豪雨による大水害が発生しましたが、鹿島台町の歴史は常に水との戦いであったといわれていますね。

鹿野 はい。宮城県の歴史に鹿島台が登場するのは、いまから300年前のことです。それまでは品井沼の辺の寒村でしたが、伊達藩によって沼を水田とする干拓が始められました。昔は米経済の時代でしたから、稲作は最大の産業だったわけですね。ただ、この一帯は海抜ゼロメートル地域で洪水になればまた水が溜まり、この当たり前の自然現象が稲作を営む人々にとっては水害となる。その後、19世紀に堤防を築き河川を治める治水事業が始まりました。そして、明治時代を迎えると町に陸蒸気が走るようになり、第二次、第三次産業が興って、新しく都市化に向けた町づくりがスタートしました。こうして見ると100年ごとに社会環境や産業の変化が訪れ、それをステップボードとして町も成長してきたといえます。

 21世紀という新しい節目を迎え、いま手がけているのは『瑞/華/翠』という町づくり計画です。瑞は〈若々しさ〉の象徴で、水との戦いを逆手に取り、水を暮らしの中に活かしていこうというものです。具体的には、①河川の氾濫拡大を最小限に防ぐ堤防と緊急道路とバイパスを兼ねた「二線堤」の建設、②ヘリポートや船着場を完備した救助・復旧の総合拠点「水防災拠点」の建設、③瑞の博物館構想を活かした親水空間づくり、などです。加えて華は華やかさを表わし産業の育成を意味しています。さらに翠という言葉で表現されるさわやかで、やすらかな地域社会生活と自然と調和した町づくりを目指しています。

──川面より低い沼の水を流すため、川底にトンネルを掘った先人のチャレンジ精神には驚きます。

鹿野 中国に〈愚侯山を移す〉という言葉があります。これは、山の土を背中に担ぎ何百里も歩いて渤海に捨てに行った愚侯を世の人々が笑ったが、それに対して愚侯は「自分にできなければ孫子の代まで続ければ、いつかはこの山もなくなり渤海は埋まるだろう」と言ったというものです。鹿島台では、元禄の穴川開削にはじまり、明治の穴川・吉田川の改修、昭和の河川が立体交差するサイフォン建設など、さまざまな治水事業を行ってきましたが、治水とは無謀にも自然を支配しようということに他ならない。何度も挫折感を味わったでしょうが、先人たちはこの愚候のように百折不撓の精神で治水事業を続けてきたわけです。

──なるほど。町づくりにかける精神は、300年前から培われてきているわけですね。

ネットワーク型組織のもたらすもの…

──情報化ということでは、宮城県内でも早い昭和50年に住民情報管理の電算処理をスタートされましたが、ご英断でしたね。

鹿野 あの頃は、いずれは電算処理が進むだろうと漠然と感じていただけで、英断なんてとんでもない。〈このシステムを導入すると何人削減できて、いくらコスト削減できるか〉という興味しかありませんでした。だから、トータルメリットといわれても理解できず、TKCとも随分やり合いましたよね(笑)。情報化に対する考え方が大きく変わったのは最近のことです。立花隆に惹かれて買った雑誌で、彼が〈人類は、今後、情報という空間と接していかなければならない〉と語っていたのを読み、遅ればせながらコンピュータに開眼した。その本の表紙が“キムタク”でね、立花隆のお陰でコンピュータと木村拓哉を知りました(笑)。また、数年前から行政リエンジニアリングを考えていたこともあります。いまの閉塞感を打開するためには、現在の町長をトップとするピラミッド型組織をネットワーク型組織へ変えなければならない。その最大のつなぎが新人から町長まで役職を超えた“情報の共有”であり、そのためにシステムがどうあるべきか。問題はそこだ! という結論に辿り着いたんです。

──行政の組織改革をお考えなんですね。

鹿野 はい。早い時期に、しかもシステマティックに組織を改革したい。いま、行政の課題の1つに情報公開がありますが、うちのように小さな町ではそのために多くの人手をかけることはできません。過去の〈情報整理〉も必要ですが、むしろ、これから情報をどう円滑に活用し公開するのかという視点での〈情報整理〉が重要だと思います。そこで鹿島台町では、平成10年4月1日運用開始の予定でイントラネットの整備を進めています。庁内のパソコンをLANで結び、職員が使用するアプリケーションソフトを標準化。また、モバイルコンピューティングということで公用車にノート型パソコンを設置する計画です。職員1人に1台が理想ですが、近年中にはデスクトップ型とノート型を合わせて2人に1台の環境を整えます。当面は、ライブラリ、電子メール、カレンダー、フォーラムの各機能で利用する予定で、これによって情報の共有化が図られ、組織改革にも拍車がかかるのではないかと期待しています。

──鹿野町長の意識改革の成果ですね。TKCでも全社員が日常業務のあらゆる面でイントラネット『ProFIT(プロフィット)』を活用していますが、業務の流れがかなり変わったと感じています。

鹿野 ここ数年でIT技術は本当に変わりました。子どもの頃、「魔法のランプ」や「空飛ぶ絨毯」などは不思議な存在でしたが、IT技術はそんな魔法を具現化したものといえます。ネットワークでは時空を超えるわけですからね。特にWindowsの登場には驚きました。歴史的に「新大陸発見以上の出来事」といっても過言じゃない。後世の歴史家がどう記すのか興味がありますよ。

──全職員にパソコン研修を義務づけましたね。

鹿野 部下から要望が上がってきたので、けしかけただけですよ。私も「教えてくれる先生がいるうちにパソコンを覚えよう」とデスクトップを買い込み、若い職員に教えてもらいました。でも、部下はみんな「私のパソコンが早く壊れればいいのに…。早く飽きないかな」と思ったでしょう。でなきゃ、うるさくてしかたないとね(笑)。

──どんなことにパソコンをお使いなんですか。

鹿野 私は自分の持っている情報、頭の中にインプットされている情報を『Excel』に入力しています。毎日、耳にしたことや思いついたことを忘れないうちにExcelにメモしておく。そうすれば、遠い記憶がより正確な記録になるわけです。

──独自の備忘録データベースですね。

鹿野 そうです。パソコンを使うのはそれが一番多いですね。後は原稿を書く時。そういった単純な使い方しかしていませんが、自宅でも庁舎でも時間があればパソコンに向かいますよ。書き留めておきたい情報はいろいろとありますし、「別のソフトで作成したデータをExcelに入力し直してWordで加工しよう」「以前、書いた原稿をパソコンで保管しよう」という具合にやりたいことは次々と出てきますからね。

大胆な広域圏合併が起死回生の策

──介護保険法が現実のものとなりましたが。

鹿野 24時間ホームヘルプも、施設福祉や人材育成も遅れており、早く体制を整えなければいけないと考えています。だが、行政がお金だけで福祉サービスをするのは限界です。日本では急速に高齢化が進んだため、欧米社会のような文化的土壌が未成熟な中でボランティアを育てなければならない。それには町民の協力が欠かせません。また、介護サービスについても、サービスを受ける側と提供する側を単純に報酬でつなげば済むものではなく、非常に難しい問題ですね。

──おっしゃる通りです。ところで、この辺りは『ササニシキ』の本場ですが農業行政についてはいかがお考えですか。

鹿野 もう、市町村が地域づくりの手段として農業を振興するという時代ではないと思います。国が農業、林業、水産業を個々の産業として位置づけ、国際的に十分対抗できるようなものに育成していくべきでしょう。農業人口を見ると65歳以上が全体の4割を占め、このままでは、農家は激減します。地球全体では人口が急増する傾向ですが、地球上で生産できる食料はせいぜい60億人分程度といわれている中で、食料は海外から買えばいいという政策ではいずれ行き詰まります。しかし、いまの日本には産業として農業を発展させ、食料を海外へ供給するんだという気概がまったくない。そういう意味では、いま“農業ルネサンス”というべき革新を起こす時期だと思いますね。

──それも21世紀に向けた大きな課題ですね。

鹿野 はい。それと環境問題ですね。地方都市ではゴミの3分の1が各家庭で燃やされているといわれ、そこにもダイオキシンが発生します。しかし、大型焼却施設や学校の焼却炉ばかりに関心が集まっている。ゼロに戻すのは無理でも、せめて減らすための方策を考えなければいけませんね。また、下水設備の問題も難しい。農業集落排水のことまで考えると前途遼遠です。下水道事業をはじめ、いま広域圏でなければ対応できないテーマが増えており、市町村合併は加速度的に進むでしょう。私は「石巻市から酒田市まで日本列島を輪切りにして合併しよう」といっていますが、それぐらい大胆な取り組みをしなければ何も変わらないし、大都市に対抗できませんよ。

──それは、また思い切った発想ですね。

鹿野 時代の変革スピードを考えると、革命的にやらなければ無理です。市や町という概念を捨て、運命共同体の意気込みでやらなければ変わりません。大体、鹿島台も107年前に6ヵ村が合併して誕生したわけで、永久に鹿島台は鹿島台だということはないんです。それよりも、地方都市が新しい産業、新しい情報、新しい文化をどう創造し、どう発信していくのかということの方がはるかに重要です。鹿島台町の場合、水害に強い町づくりで新しい都市形成を目指していますが、そこにどんな産業を興し・どんな文化を開花させるかという点で、もっと突っ込んで取り組まなければいけない。これは地方都市共通のテーマであり、地域が戦略的連携をして考えていくべきだと思います。

日本の地方都市から世界の鹿島台町へ

──国際化社会ということではいかがですか。

鹿野 鹿島台町は中国・鄭州市と姉妹都市交流をしています。ただ、単にいろいろな国と仲良くするのであればインターネットで充分です。国境なき経済といわれる中、鹿島台町も国際社会の一員として、急増する人口問題や国際平和などにどう関わっていくかが課題です。具体的には、鹿島台町から世界へ品質の高い穀物を提供できるようにすることでしょう。その上で国際貢献という役割をどう果たしていくか、考えていきたいですね。

──金融ビックバンも間近ですが、経済的危機感を抱きながら我われは21世紀を迎えなければなりません。このような状況は地方行政にとっても重い足枷となるのではないでしょうか。

鹿野 確かに、行政にとってかなりシビアな時代となっていくでしょうね。行政はコスト意識を持ってサービスの効果を考え、住民の理解をどう深めるのか真剣に考えなければいけません。しかし、町づくりが大変なのはいまも昔も同じです。なぜ、いまの時代が難しいのかといえば未曾有の大変革が求められているからです。未来図は誰も示してくれませんが、問題の先送りは許されません。21世紀への離陸のため、市町村も早急な意識改革が必要だと思います。

──本日は、どうもありがとうございました。

かの・ふみなが
1935(昭和10)年生まれ。宮城県仙台一校卒、東北大学中退。鹿島台町農業委員会委員などを経て、1975年4月鹿島台町長に就任。現在まで6期連続、トップとして町の運営をリードしてきた。1997年から大崎町村会会長。

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