1999年4月号Vol.11

【その意気や、壮!】第1回 「忠臣蔵」と水道の関係 浅野長直

文/泉秀樹

 浅野長政はいわゆる名門の出身ではない。

 ただ実直・努力型の人物で、妻・ややが秀吉の妻・ねねの妹であったところから順次出世していって、豊臣政権の五奉行の一人に任じられた。

 しかし、秀吉没後は文官型の石田三成とそりが合わず、関ヶ原の合戦では東軍に加わった。この関ヶ原の合戦で息子の幸長が大きな戦功をあげて家康から紀伊三十七万六千石をあたえられた。

 そして、長政自身は慶長11年(1606)「養老料」として常陸国の真壁・筑波二郡五万石をあたえられ、江戸に住んで家康の碁敵をつとめながら五年後に六十五歳で没した。

 長政のあとは三男・長重が継いだ。

 やがて長重が亡くなると、嫡子・長直があとを継いだ。慶長15年(1610)に生まれた長直は、寛永8年(1631)12月、21歳で従五位下、内匠頭に任じられ、翌年10月には常陸・笠間城主になり、駿府城代をへて大阪城の「加番」という職に任じられた。

「加番」は城を警護する「定番」を補佐する役職で、その在番中に赤穂城主・池田輝興が発狂して正室(黒田長政の女)を殺害するという事件が起こった。

 発狂した輝興は岡山の池田の本家・光政にあずけられ、長直は幕府の命令で赤穂へ赴いて城を接収し、そのまま赤穂五万三千石の領主になった。正保2年(1645)6月22日のことである。

 長直は、ただちに幕府の許可を得て新規築城にとりかかった。

 すでに濠、石垣・櫓、塀、門、2階造りの大手の黒門を備えた城があるにはあったが、これが空濠を掘った土を土累に盛りあげた掻き上げの城だったので、長直は甲州流軍学に通じた近藤三郎左衛門正純に縄張り(設計)を命じて本格的な城郭をつくりはじめた。三郎左衛門は長直が師事して大きな影響を受けていた山鹿素行(兵学者)の高弟である。

 同時に長直は上水道の整備拡充にとりかかった。

 赤穂の城も町も千種川の河口の平べったい三角州の上に展開しているため、どこを掘っても塩分の強い水しか湧き出さない。人々は生活用水にも田畑にも必要不可欠な真水に不自由し、難儀していた。

 このため、慶長五年(1600)から8年まで池田輝政の末弟・長政が赤穂を領していたとき、輝政の家人で五百石を給されていた垂水半左衛門勝重(詳細不明)が郡代として赴任してきて、ここの町割りや川の整備、上水道の敷設計画が実施に移された。

 半左衛門は赤穂が輝政の子の忠継の代になっていた慶長19年(1614)から元和2年(1616)の3年間に代官として「根木村の山を切抜き……(中略)……周世川の水を導て加里屋に入る」という。

 加里屋(仮屋)は城の北部の町一帯のことで、上水道はこの町を貫き、支管で水を町家に配りながら城中にまで流れ込んでいた。

 濠の下を通った伏樋の水が城中の池や水汲み場に湧きあがっていたということで、これはサイフォン現象を利用していた。

 ところが、長直が赤穂に入って、城下の武士人口が2、3倍、町人口は1.5倍、総人口7000ほどに増加したため、居住地域も拡大し、水の需要量も大きく増えた。

 長直は半左衛門がつくった基礎的な状況を分析し、水道の幹線を利用しつつ配水・給水設備を大幅に拡充しなければならなくなった。

 千種川の水を切山隧道から取り入れるだけでは対応しきれなくなったから、根木船渡、木津に新たに取水口を設けて開発した新田と城下町に導水したのである。

 上水道工事の規模、構造、施行の技法などの詳細は省略するが、工事や石垣、木樋、竹樋、伊部焼きの給水管、人件費などなどに要した金は、史料が残されていないからわからないが、さぞ莫大な額にのぼっただろう。設備の維持管理、改修工事、新設工事にも相応の金がかかる。同時進行で巨大な城郭も築いている。

 城と上水道整備には13年をかけたからすさまじい額の支出がつづいたはずだが、長直はこれを主に塩田からの収入でまかなった。赤穂塩の販売による利益が大きかったということだが、台所はたいへん苦しかった。

 まことに苦しい財政であったけれども、上水道は民百姓の生活の基礎だから、領主としては整備し、維持しつづけなければならなかった。

 そして、これだけではなく、長直はさらに大きな負担を背負わなければならなかった。

 京都の内裏が炎上し、浅野家が紫宸殿をはじめとする御所の主要部分を再建せよと幕府に命じられたのである。

 長直は禁裏造営の惣奉行に任じた大石良欽(大石内蔵助良雄の祖父)とともに、懸命にその仕事に取り組んで、無理に無理を重ねて寛文二年(1662)には予定通りに完成させた。

 ようやく仕事が終わってみると、この工事には米2万2千7百余石、銀2千4百余貫、小判3百余両、金両になおすと4万8千両を費やしていた。1両20万円で単純計算しても96億で、金ぐりに苦しかった長直にも家臣にも領民にも、気の遠くなるような数字だったろう。

 このために、赤穂城に天守台が築かれてはいたが、天守閣は建てられなかった。明暦の大火で江戸城の天守閣が燃えたあと、徳川家がそれを再建しなかったから、赤穂でも遠慮して天守をつくらなかったといわれ、たしかにそれも理由のひとつではあろうが、金がなかったからだというのが実情だろう。

 長直が百姓に課した税も四公六民ないし五公五民で、庶民としてはだいぶ高かった。それでも負債が残って、元禄14年(1701)3月、松の廊下で幕府高家・吉良上野介義央に斬りかかるという事件を起こした孫の内匠頭長矩の代には五・八公四・二民くらいの課税をしなければならなかった。インフラストラクチャの整備には全員が「痛み」を負担しなければならなかったのだ。領民にとっては「痛み」どころか「激痛」であったろうが。

 しかし、身上を傾けてまで御所造営をやったことで、天皇以下朝廷は浅野家の尊王忠節に大きな好意と信頼を寄せるようになった。長直はなかなかしたたかな政治的計算をやったということだ。

 一方、同じ時期に幕府・高家として朝廷対策を担当していた吉良義冬・上野介義央父子は金20枚、小判でいうと二百両(4千万円)を朝廷の公家たちにバラ撒き、後西天皇を退位させて霊元天皇を即位させる運動を行い、これに成功して朝廷から蛇蝎のごとく嫌われ憎まれていた。

 のちに江戸へ下向した勅使の接待に関する問題で引き起こされた「忠臣蔵」という事件が起こる種が、このころから芽を出そうとしていたということである。

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