1999年7月号Vol.13

【その意気や、壮!】第2回 慶長版PFIに情熱を注いだ豪商 角倉了以

文/泉秀樹

 角倉了以は何代も前からの富裕な家に生まれ、土倉(金融業)や医業で成功をおさめた父・宗桂の後継者となった。ただの後継者ではなく、戦国末期から江戸時代初期にかけて安南(ベトナム)貿易で豪商としての屈指の立場を確立した傑物である。

 千光寺(京都・嵐山)は了以が晩年を過ごした別荘の跡地であり、死後は菩提寺となった寺だが、この寺の大悲閣(仏堂=観音堂)に残っている了以の座像は僧形で、怒りをはらんだような眼光は大自然を屈服させ、人の心を貫くようにあくまでも鋭く、いかにも荒々しい冒険者か修行者を連想させるおそろしい風貌だが、長男の素庵は柔和で知的な面影を持ち、母親に似て虚弱体質でもあったようで、まさに対照的な父子だったという。

 慶長16年(1611)了以はそれまで毎年海外に送り出していた朱印船の許状の受領者を息子の素庵に譲り、貿易の第一線から身を引いた。

 といっても隠居生活に入ったわけではなく、貿易のほかに情熱を注ぐべき仕事を見つけたからであった。

 慶長9年(1604)了以は長崎からの帰路、備前(岡山県)の和計川で見た川舟に目をとめた。

 その川舟は瀬の高い和計川を通るために底が浅く平らに作られていた。いわゆる平底の高瀬舟であり、了以はこの川舟なら水量のとぼしい川でも荷物を運ぶことができるということに気づいたのである。

 天啓を得た了以は、その後、保津川(大堰川)の開削に取り組んだ。それまでの丹波(兵庫県)から京へ向かう幅のせまい亀岡街道の老ノ坂峠越えは、人馬の労力を費やしてもはかばかしい効果のあがらないルートだった。

 馬一頭が輸送できる荷物は120キロくらいが限度で、ボリュームも知れている。途中で宿泊しながら目的地に向かうのだから、人件費も経費もかさむ。 

 しかし、保津川が開削されれば舟の力で丹波から京への輸送効率は格段にあがると考えた了以は、慶長10年(1605)素庵を幕府に送り込み、開削工事の許可を願い出た。

「古より未だ船を通ぜざるところに、今開通せんと欲す。これ二州(丹波・山城)の幸なり」

 流れも激しく速く、浅瀬や岩が多く、断崖が切り立つ保津川の工事は難航した。

 だが、了以は私財を惜しみなく投じた。機械などない時代に人海戦術で、わずか半年という短い時間でその工事を終えたのである。

 素庵の師であり、幕府の御用儒学者であった林羅山はこう書き残している。

「石の水中にあれば、すなわち浮楼を構えて、鉄棒の鋭頭なる長さ三尺、周り三尺、柄の長さ二丈ばかりなるを以て、縄につなぎ、数十人を余して引きあげ、径にこれを投下せしむ。石の水面に出るときは、すなわち烈火にて焼砕す」

 水中の岩は鋭く尖った巨大な鉄の棒で突き砕き、水から頭を出している大きな岩は火薬で破砕したのである。

 こうして保津川を開通させた。それは、優秀な土木技術者としての了以の才能と、私財を惜しみなく投じる熱意と不屈の意思によってはじめて成し遂げられた偉業だった。

 船頭は備前・伊部の瀬戸内水軍・来住氏に応援を求めて和計川一帯の優秀な舟子たちを呼び寄せた。

 このようにして丹波から京への輸送が開通したことによって材木や塩、鉄などはもとより大量の米が流通するようになった。この航路は淀川舟運ともつながり、大いに上方経済を刺激したのである。

 了以は完成した川や運河の通行料を徴収した。いわゆる現代の有料水路だが、その卓抜した発想は感嘆に値する。

 しかも、了以が行った工事は交通、水運の発達に大きく貢献し、いままで不可能だった物資の大量輸送を可能にさせる公共的性格を帯びており、一般市民の生活を向上させたことはいうまでもない。

 了以は通行料だけではなく米を保管する倉敷料(倉庫料)をも徴収し、莫大な収益を得た。幕府にもその一部を上納し、角倉家の地位はさらにゆるぎないものになった。

 保津川の開削の翌年、慶長12年(1607)幕府は角倉家に富士川の開削を命じた。

 さらに慶長14年(1609)には鴨川の改修工事を命じた。これは豊臣秀頼が行っていた東山・方広寺の大仏殿造営のためであった。豊臣家に金銀を放出させて力を低下させようとしていた幕府はその工事を進めるための水路開発を了以に命じたのである。

 保津川開削の経験と技術を生かして鴨川の改修工事を半年ほどで終えた結果、京都の商売の自由化が進み、米や薪の値段も大幅に下がったという。

 しかし了以は、鴨川がもたらす利益は恒常的に安定したものではないことをはじめから見抜いていた。当時の鴨川は氾濫しやすい暴れ川だったからである。

 それでもこの仕事を受けたのには理由があった。了以は安全で確実に角倉家と京都の人々に利益をもたらす人工水路を開削する布石として鴨川の改修工事を請け負ったのである。

 慶長16年(1611)幕府から許可を取った了以は、翌年に人工運河の工事に着手した。二条樵木町から東九条村で鴨川を横切り、伏見に沿って下三栖で宇治川に合流する高瀬川の開削である。

 慶長19年(1614)に金七万五千両をかけた水路が完成すると、角倉家は二条木屋町に角倉役所を設置して水路の通航管理をした。

 二条から七条にかけての水路沿岸には市街地が生まれ、ここでも流通経済が刺激されて市民の経済生活は活発化されたのである。

 まさに、了以は「自他ともに利する」という信念を実行したが、これは単純な私利私欲主義に狂奔する現代の日本人にもっとも欠けているメンタリティである。

 四百年近くも前に生きた角倉家の人々の慧眼と公的意識の高さには驚嘆するほかない。

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