1999年10月号Vol.13

【その意気や、壮!】第3回
ある地方官吏の生涯テクノクラートとしての生き方 石黒信由

文/泉秀樹

 石黒信由は宝暦10年(1760)11月18日、越中・射水郡高木村(富山県新湊市高木)に生まれた。

 石黒家は持高八十八石四斗九升の小地主であったから非常に富裕であったとはいえないが、農家として安定した生活を送っていたと思われ、信由はなんの不自由もなく順調に育った。

 しかし、三歳のとき父・与三吉が23歳で亡くなってしまった。このため母が再婚して家を出、信由は高木村肝煎役(村長)であった祖父・藤右衛門に育てられた。

 信由は幼いころから算学を好んだ。

 利発な子供であったにしても算数が好きだというのは珍しいが、これは藤右衛門の影響であった。

 藤右衛門は平安時代に同じ射水郡出身の三善為康が算学を学んで日本一の算学博士になったことをくりかえし語り聞かせ、刺激された信由がその道を志すことになったのである。

 天明2年(1782)11月29日、信由は23歳で富山城下桃井町にあった中田高寛の算学塾に入り、関孝和(1642~1708)を祖とする関流算学を学んだ。

 入塾して間もない天明3年(1783)2月から『広益算梯』という問題集を解きにかかり、2ヵ月半後の4月には第一巻百題を解き、翌天明4年8月下旬には、この問題集全五巻五百題を解いてはやくも『広益算梯答術』(全5巻)を出版した。努力型天才である。

 この年に祖父が亡くなって信由は25歳で高木村肝煎役を継いだ。

 寛政4年(1792)信由は藩校・明倫堂の算学師範をつとめる宮井安泰に入門して測量術を学び、つづいて同11年(1799)40歳で天文学者・西村太冲に入門した。

 太冲はヨーロッパから中国経由で日本に伝わった三角関数や対数を研究していたから、信由は暦学・数学に関する西欧的な感覚を身につけることができた。とにかくひたすら学び、ひたすら算学の論文を書く学者の生活をつづけたのである。

 これを評価した藩は寛政7年(1795)7月に射水郡縄張役(測量係)に任命し、信由は村々の分間図(測量図)制作にとりかかった。

 以後、信由は先端的なテクノクラートとして加賀(石川県)の河北潟、越中(富山県)の放生津潟(新湊)の測量図制作など夥しい仕事をこなしていった。

 そして、特筆すべきは寛政8年(1798)からとりかかった新川郡の舟倉用水(富山県上新川郡大沢野町)の測量・設計である。

 神通川右岸の雑木や熊笹ばかりが生い繁る舟倉野の原野の開墾に必要な水源の確保が目的であり、この計画には砺波郡内島村(高岡市)の十村役・五十嵐孫作があたった。

 信由は孫作のもとで用水開削のために勾配を計測し、流れる水の量を計算し、薄波(大沢野町)の山中で長棟川から取水する用水の土木設計図をつくった。

 測量にあたって、信由は雨を利用する「笠測量」を行った。

 雨の降る夕暮れ時、水路予定地の一町(約百九メートル)の間にロウソクを点したガントウ(鉄製の照明器具)を持った者を等間隔にならべ、信由が神通川の対岸からその光を見つめる。

 信由は縁に竹板を打ちつけた桧笠をかぶっている。その笠の竹板には降っている雨水が溜まっている。

 右端の光を見つめ、瞳を動かさないまま首を少し左に回して次の光を見つめる。

 と、そのとき桧笠の上から溜まった雨水がバンドリ(蓑)の左肩にこぼれ落ちる。そのわずかな水のしたたりの量と速度で傾斜角を知るのである。

 この難しい測量が終わり、設計図ができて工事がはじまったのが文化7年(1810)だから、測量などの下準備だけで12年の歳月がかかったことになる。

 工事も、難渋をきわめた。

 近くの吉野銀山、河原波、亀谷金山などの鉱山の石工たちが岩盤を鉄のノミ、タガネ、鎚で掘り抜いていく。いわば手掘りであった。

 大きな岩にぶつかると枯れ草や木を燃やし、表面から三寸か五寸(約10~15センチメートル)ほど焼けたところを見計らって一斉に水をかける。急冷された岩にひびが入り、ひびにノミやタガネを打ちこんで砕いて先に進んだ。

 こうした労苦を七年間つづけて銀千二百貫、千石の米をかけた工事はようやく文化13年(1816)秋に終わり、切り立った神通峡とよばれる岩山の急峻な山腹に四里(16キロメートル)の水路が開削されたのである。

 水路は幅五尺(約165センチメートル)、深さ三尺(約1メートル)で直坂(大沢野町直坂)の「三ッ分水」まで水を導き、そこから枝分れして舟倉野一帯が潤され、不毛の台地はやがて三千六百八十七石の米が収穫できる美田に変わった。

 舟倉用水の測量に余念がなかった享和3年(1803)8月3日の夜、44歳の信由は人生にとって最も重要な人物と出会った。

『大日本沿海輿地図』を制作するために全国の測量にあたっていた伊能忠敬と放生津(新湊)で会い、測量器具を見せてもらいながら語り合い、翌日は海岸を東に向かう忠敬に婦負郡四方まで同行するという幸運に恵まれた。

「伊能先生と我如何なる因縁やあるらん/古明神村より婦負郡四方町まで同道して/暫く地理天文算学の事を隔意なく遊談して/互いに名残り別れけり」(『測遠用器之巻』=原文片仮名混じり文)

 忠敬とは生涯にただ一度の出会いながらお互いに深い知的感動をあたえ合い、信由が自分の学問とテクノクラートとしての生き方に自信を持ったことが「互いに名残り別れけり」ということばによくあらわれている。

 そしてこの経験は『加越能三州分略絵図』(文政8年完成=重文)として結実することになるのである。

 信由は測量の成果を藩に評価されて新田才許・十村役に取立てられ、そのかたわら売薬業も行うなどして最終的には六百五十五石の持高百姓になったが、あくまで百姓身分で上級官吏とはいえなかった。武士から見れば在村の一小役人に過ぎなかった。

 また、信由は天保7年(1836)夏、とつぜん米の隠匿の疑いで取調べを受け、その嫌疑が晴れないまま同年12月3日に77歳で病没したが、しかし、厳しい士農工商の身分制度下で不幸な最期を迎えたことなどなんとも感じなかったと思われる。テクノクラートに徹して大きな先進的な成果をあげた生涯だったからである。

 信由の日常は夏の酷暑も冬の極寒も忘れて「終日夜半に至る」まで勉強しつづける質素な生活であったという。

いずみ・ひでき 昭和18年静岡県浜松市生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。産経新聞社記者・編集者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。著書は『海の往還記』(中央公論新社)『天皇の四十七士』(立風書房)など多数。

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