エネルギー価格や原材料コストの高騰による価格転嫁により、クローズアップされる機会が増えている「物価」。世界で急速に進むインフレの要因は何か、日本は長らく続くデフレから脱却できるのか。物価研究で知られる渡辺努教授が現状を分析し、行方を占う。(インタビュー日:2022年10月21日)

プロフィール
わたなべ・つとむ●1959年生まれ。東京大学経済学部卒。日本銀行勤務、一橋大学経済研究所教授などを経て、現職。株式会社ナウキャスト創業者・技術顧問。ハーバード大学Ph.D.専攻はマクロ経済学、国際金融、企業金融。著書に『世界インフレの謎』(講談社現代新書)、『物価とは何か』(講談社選書メチエ)、『入門オルタナティブデータ 経済の今を読み解く』(共編著、日本評論社)などがある。
『世界インフレの謎』

『世界インフレの謎』
講談社現代新書990円+税

──現在の物価情勢をどう受け止めておられますか。

渡辺 日本では2022年9月の消費者物価指数(CPI)が前年同月比で3.0%上昇するなど、多くの人々が物価高を実感する状況となっています。ただ日本のインフレ率は、欧米各国をはじめ諸外国で5%を上回っているのと比べると、低い部類に入ります。IMF(国際通貨基金)が4月に公表した加盟国の22年インフレ率予測ランキングによると、日本は加盟国中最下位の192位でした。
 3%という低いインフレ率にとどまっている理由は、値動きしていない品目が多くあるためです。日本の消費者物価指数は、約600品目から構成されていて、理容店を例にとれば、シャンプーなどのモノはもちろん、理髪料金といったサービスも含まれます。
 こうしたデータをもとに、各品目の価格が前年同月と比較してどのくらい変動したか、分布図に落とし込んでみました。その結果、ガソリンや電気、ガスなどのエネルギー価格は上昇している一方、前年と価格の変わらない品目が約4割あることがわかったんです。他の先進国ではあらゆる品目が値上がりしているので、日本特有の現象といえます。

──日ごろ、どのような手法で物価動向を分析されていますか。

渡辺 全国にある約1,200店の食品スーパー、コンビニエンスストア、ドラッグストアからPOSデータを送信してもらい、独自に開発したアルゴリズムを用いて、物価指標を日々更新しています。
 POSデータやクレジットカードにひもづいている購買情報などは「オルタナティブデータ」と呼ばれます。このデータを用いた分析の利点は、店頭商品の物価をタイムリーに把握できるところ。直近では、前々日の物価指数を計算できるまでになっています。
 なおかつ、7万点前後にのぼる膨大な商品点数を網羅しています。総務省が毎月公表しているCPIは、チョコレートなら「A」という特定の商品のみを調査対象としているのに対して、われわれの採用している手法では「A」、「B」、「C」……といったように、あらゆる商品の価格変動を追跡できるのも特長です。分析対象は食品および日用雑貨が中心ですが、足元では前年比4%前後の上昇率を示しています。

モノ消費へのシフト

話題の著者に会いに行く!

──世界各国でインフレが進行している原因は何ですか。

渡辺 現在進行中のインフレ要因に関して、定説はまだ存在しませんが、パンデミックがもたらした「行動変容」に起因するところが大きいと分析しています。
 新型コロナウイルスという人類共通の敵に立ち向かうため、世界中の人々のとった行動が「ステイホーム」でした。外出を控えた結果、外食やレジャーといったサービス関連の消費が鈍り、モノへの支出額を増やす傾向が顕著になりました。需要がサービスからモノへシフトすれば、モノの価格はおのずと上昇します。
 そして、モノを生産するには人手が必要です。その肝心要の労働者が、コロナ前の水準までオフィスや工場に戻っていません。テレワークに慣れてしまい、出社するのを忌避する人々が出はじめている。出社が義務になるのを嫌って転職を検討する若手社員や、コロナ感染を警戒しリタイア時期を早めるシニア社員も現れていると聞きます。モノに対するニーズが旺盛であっても、それに応えられなければ、需要が供給を上回り、物価上昇を招くのは自然の成り行きといえるでしょう。
 つまり、足元で進行しているインフレは「供給ショック」なのです。

──なるほど。

渡辺 経済行動の常識として、コロナ禍のように皆が一斉に同じ行動をとる事態は、これまで想定されていませんでした。
 例えば、レストランに行かないという行動をとる人もいれば、食事するためレストランに足を運ぶ人もいます。株式の売買でも、売りどきと考えて保有株を売却する人がいれば、買いどきだからと購入する人もいる。このように人々の意思決定がまちまちだからこそ、経済は回っていくわけですけれども、コロナ禍では皆がおしなべて同様の行動をとりました。
 私はこうした現象を「同期」と名付けました。世界中の人々が同期するのはまれであり、インフレが空前の規模で波及している背景は、そこにあると分析しています。

──ロシアによるウクライナへの侵攻をインフレの原因とみる向きもあります。

渡辺 今回のインフレは、21年4月ごろから欧米各国で始まっています。軍事侵攻の影響でインフレ率が上昇したのは間違いありませんが、根本的な原因はパンデミックに由来する供給面の変化にあるとみています。たとえ和平交渉が進展して戦争が終結しても、インフレは容易に終息しないのではないでしょうか。

根強い価格据え置き慣行

──日本では、4割の品目が値動きしていないとの指摘がありました。その要因は?

渡辺 日本社会において、モノやサービスの価格は上昇しないのが当たり前である、との認識が定着している点が挙げられます。
 そうした「価格据え置き慣行」と呼ばれる現象が観察されるようになったのは、1990年代後半以降です。当時、いわゆる金融危機が発生しました。山一證券や北海道拓殖銀行が経営破綻するなど、いろいろな混乱が起こったわけです。景気が低迷するなか、企業は賃金を上げるのがむずかしくなり、労働者も失業するよりマシなので、賃金が据え置かれる状況を甘受するようになります。同時に労働者は一消費者として、物価に対してシビアになり、企業はモノやサービスの価格を容易に引き上げられなくなりました。
 物価と賃金を右肩上がりに戻すべく13年に開始されたのが、日本銀行による異次元の金融緩和でした。しかし、企業に根強く残る価格据え置き慣行を覆すにいたっていません。物価と賃金ともに動かさない慣行が、ある種社会のコンセンサスになってしまった。ここまで長期にわたってデフレが続いている国は類例がなく「慢性デフレ」と呼べる状況を呈しています。

──値上げを嫌えば企業収益は減少し、賃金上昇が見込めなくなるので、回りまわって自分自身の首を絞めているような気がします。

渡辺 消費者は価格についてシビアなのは理解できますが、買い物等で利用する店舗で、身内や友人が働いている場合もあるはずです。本来なら、ふだん利用する店舗の従業員の賃金も頭の片隅に置いて、適正な価格を検討するべきです。
 さりながら、とりわけ日本人は労働者としての立場を忘れて、モノやサービスの値上げを毛嫌いする傾向が強い。その点は、今後改めていくべきだと思いますね。もっとも、物価に対する考え方に変化の兆しが見られるのも確かです。

──詳しく教えてください。

渡辺 私の研究室では、英国、米国、カナダ、ドイツ、日本の5カ国の消費者を対象に、物価にまつわるアンケート調査を毎年実施しています。向こう1年間のインフレ予想などの質問を設けており、今年5月に実施した調査の結果は意外なものでした。
 日本の消費者のインフレ予想で、「かなり上がる」という回答が21年8月の前回実施時から大幅に増加したのです。また、行きつけのスーパーマーケットでいつも購入している商品を買おうとしたときに、価格が10%上がっていたらどうするかを尋ねた設問では、「いつもの店で値上げされた商品を買い続ける」という回答が、前回の43%から56%に上昇しました。
 日銀の黒田東彦総裁は今年6月この調査結果をベースに、家計の値上げ許容度は高まっている、と発言されたわけですけれども、日本の消費者の「値上げ耐性」は、5月ぐらいから潮目が変わってきたと感じます。

カギは人件費を転嫁できるか

──人々の物価に対するマインドが変化しつつあるわけですね。

渡辺 経営者はこれまでコスト削減等の企業努力で、何とか値上げを回避してきました。それがここにきて、原材料の調達コストやエネルギー価格の大幅な上昇によって、価格に転嫁せざるを得なくなっています。それから消費者も、こういうご時世だから少々の値上がりも仕方ないと考えるようになった。したがって、企業は目下、コスト上昇分を価格に転嫁し、適正な値付けを行いやすい環境にあるといえます。

──日本ではデフレが30年近く続いていることになりますが、今後どんな展開を予想しますか。

渡辺 モノやサービスの価格が上昇し、消費者側もそれを徐々に受け入れつつあるのは、望ましい現象であるととらえています。ただ欧米各国のように、賃上げが依然波及していません。
 いま最も欠かせないのは、賃金を物価状況にあわせて引き上げていくこと。企業は、モノやサービスの価格が少々上がっても困らないだけの賃金を、従業員に支給するべきです。原材料やエネルギーコスト上昇分だけでなく、人件費の増加分を価格に転嫁できるかが今後のカギになります。

──業績の厳しい中小企業が賃上げを行うのは難しいのでは。

渡辺 確かに、国内の企業で人件費の増加分を価格に転嫁できている例はあまりないようですし、経営者の皆さんからは賃上げなどできない、という声が聞かれます。しかし、海外の企業では、優秀な人材を引きとめるべく賃金を上乗せし、その上昇分を価格に転嫁するのは当たり前になっています。また、日本でも優秀な技術者がGAFAなどの巨大IT企業に転職しないよう、賃上げに踏み切る企業が出てきています。
 賃金上昇分をモノやサービスの価格に転嫁する際に大切なのは、経営者が価格を引き上げる理由を顧客に対して説明することです。
 例えば、がんばって働いている従業員の賃金を〇%上昇させたいから、値上げに踏み切りますと自身の言葉で説明する。そうすれば消費者は納得するでしょう。そのような企業が1社でも増え、賃上げの機運が高まれば、値上げを許容する雰囲気をいっそう醸成できるはずです。日本は長らく陥っていたデフレ状況から脱却できるか、分水嶺(れい)にあると思います。

──どの品目の値動きをふだん最も注視されていますか。

渡辺 一番注目しているのは原油価格の動向です。日本の消費者は物価を認識する際、ガソリン価格に大きなウエートを置く癖があります。つまり、ガソリンの値段が上昇していれば、物価は上がっているものと認識するわけです。オイルショック時にガソリン価格が激しく上昇した記憶がまだ鮮明に残っているからかもしれません。
 理由はともかく、将来の物価動向を占う上で、原油価格を重要な先行指標ととらえています。

(インタビュー・構成/本誌・小林淳一)

掲載:『戦略経営者』2022年12月号