河野通洋社長

河野通洋社長

「確実に津波が来る」

 毎週金曜日恒例の幹部会議を近所の公民館で開いている最中だった。これまで経験したことのない強い地震が大地を揺らす。陸前高田市に本社を置く八木澤商店の河野通洋社長(37)は、一刻も早く避難する必要があることをすぐに確信した。

「建物そのものの被害はひび割れや瓦が落ちる程度で修繕可能なものでした。しかし、今まで一度も棚から落ちることのなかった商品のしょうゆが地面に散乱しているのを見て、ただごとではないと思ったのです」

 近くにいた社員全員に逃げるように指示し、避難場所に指定していた神社の境内に避難した。すさまじい勢いで津波がやって来る。第1波、さらに大きな第2波……。

「ここも危ない」。河野社長は従業員や付近住民の先導役を務めながら、さらに高台にある裏山まで決死の思いで歩いた。振り返ると、市内を流れる気仙川をさかのぼってきた濁流が市内をすっぽりと飲み込んでいる。世にも恐ろしい光景だった。

「雇用を守る」が合言葉

 八木澤商店は1807(文化4)年創業。岩手県産の大豆と小麦を原料に伝統的な製法にこだわった「ヤマセン醤油」ブランドで有名な老舗しょうゆ醸造会社だ。大量生産品では味わうことのできない豊かな香りと上品なうまみが人気で、地元岩手のみならず東京など首都圏からの注文も多い。そんな八木澤商店だが、大津波の直撃で従業員1人の尊い命を失い、先祖代々受け継がれた土蔵も、しょうゆづくりの根幹ともいえる「もろみ」もすべて流出してしまったのである。

 しかし9代目の河野社長が、持ち前の明るさと元気の良さ、積極性を失うことはなかった。

「4日間かけ従業員を家族のもとに送り届けた後、震災1週間後には知人(中小企業家同友会気仙支部長の田村満氏)の協力を得て市内にプレハブ施設を建てることができました。それから救援物資の配送作業を自発的に行うことを決めました。県内の葛巻町に従業員を派遣しガソリンと灯油と肉と牛乳をトラックに積み込んでもらい、それを避難所や周辺集落で孤立している家などに配ったのです」

 支援物資の配送作業にとどまらず、地元中小企業救済のための活動にも奔走した。

「資金ショートを食い止めるため、金融機関のフリーダイヤルをコピーしたビラを避難所にいる取引先の経営者や知り合いの個人事業主などに手渡しました。経営者自らが電話して支払いの停止を求める必要がありますから。また雇用維持のための諸制度について説明した資料も数百枚刷って配りました」

 陸前高田の中小企業を1社もつぶさない、そして雇用を守る――。このフレーズを合言葉に河野社長は、仲間とともに経営者に呼びかけ続けたのである。

入社前の研修生が大役担う

 もちろんその間、自社の再建に向けた取り組みを怠っていたわけではない。4月上旬には一関市内で空き家となっていた縫製工場を借りることができた。本社機能を果たすのに十分な広さがあり、再建に向け大きなメドをたてることに成功したのである。営業所はひとまず確保できた。次はいよいよ生産再開に向けた準備にとりかからなければならない。そんな折に朗報が飛び込んできた。

「しょうゆづくりに欠かせない『もろみ』が波をかぶってしまいダメになってしまっていたのですが、震災前に研究機関にサンプルとして提供していたものが生きていることが判明したのです。これで途絶えることなく伝統をつなぐことができる、とそれはもううれしかったですね」

 実は同社が製造するしょうゆに含まれるアミノ酸の組成は非常に珍しく、抗がん作用を持つ物質が含まれていることが分かり、釜石市にある北里大学バイオテクノロジー釜石研究所などから共同研究の依頼があったのだ。研究用にもろみ4キロを提供したのは震災数カ月前。研究所も津波の被害を受けたが、「ヤマセン醤油」のもろみは奇跡的に無傷のまま保存されていたのである。もろみは品質を維持する環境が整っている独立行政法人岩手県工業技術センターに運んだ。そこでは同センターで研修生事業を行っている岩手県が、再建支援のためすでに一肌脱いでいた。

「同センターには4月からの入社が内定していた研修生が1人所属していたのですが、震災直後に県からすぐに『会社は大変な状況だろう。彼の研修期間を1年延長し継続雇用する』との連絡がありました。しかも研究テーマは『八木澤商店の微生物保全』。現在彼は、当社のもろみの仕込み、もろみそ単体からの分離培養、良質なしょうゆをつくるための酵母菌と乳酸菌の培養について研究を行っています」

 肝心要のもろみは何とか生きながらえた。次はいよいよしょうゆの醸造にとりかかる段階だ。河野社長の胸は高鳴った。

OEM生産で出荷を再開

 とはいうものの醸造所は流されてしまっていて生産のための場所と設備がない。そんな難問を解決したのが、老舗醸造所としては珍しい「しょうゆのOEM生産」だった。

「秋田県・角館にある安藤醸造という老舗醸造企業が、当社が公開したレシピをもとに製品を委託製造してくれることになったのです。しかも初回納品分1リットル瓶1000本を寄付していただき、その懐の深さに非常に感激しました」

 安藤醸造は小売店やデパート、スーパーマーケットなどに直接販売する「絶対に卸をしない」ことで知られる老舗醸造企業。伝統の味を守り続ける醸造企業としての誇りが両社を結び付けたのである。そして5月1日、ついに八木澤商店は製品の出荷・納品を再開した。

「電話もファックスも開通しておらず、直接顧客先に御用聞きにまわりました。自社製造ではないため取引を継続してもらえるか不透明だったのですが、スタート時にはほぼ100%のお客様からご了解をいただくことができました」

 中小企業家同友会の仲間たち、いち早くバックアップ体制を整えた地元行政機関、救いの手を差し伸べた同業者――周囲の多くの人々の助けを得て復興への確かな一歩を踏み出した八木澤商店。河野社長は力をこめてこう語る。

「世界中からいろんな支援を受けて陸前高田の人は命をつなぎました。その恩返しは、『グリーンニューディール特区』を設けるなどこの地に産業を集積し雇用を守ることで果たさなければなりません。なぜなら、自分たちの町に残って仕事がしたくてもできない人がたくさん出てくるのならば、自然に『敵討ち』ができないからです。そしてその『敵討ち』とは、自分たちの手で復興を成し遂げることなのです」

(取材協力・菅原弘志税理士事務所/本誌・植松啓介)

会社概要
名称 株式会社八木澤商店
所在地 (大東営業所)岩手県一関市大東町摺沢字沼田17-12
TEL 0191-48-3532
売上高 約4億円
社員数 37人(パート含む)
URL http://www.yagisawa-s.co.jp/

掲載:『戦略経営者』2011年7月号