紆余(うよ)曲折を経て、ようやくまとまった環太平洋経済連携協定、TPP。
世界のGDPの約4割におよぶ一大経済圏の出現で貿易、投資活動の活性化が期待される。
海外市場に目を向ける企業が増えるなか、TPPはビジネスの追い風となるのだろうか。中小企業目線で探る。

プロフィール
いとう・もとしげ 1951年生まれ。東京大学経済学部卒業。ロチェスター大学Ph.D。専門は国際経済学。経済財政諮問会議民間議員などを兼務。テレビ東京「ワールドビジネスサテライト」コメンテーターとしても活躍している。『ゼミナール国際経済入門』『はじめての経済学(上・下)』(以上、日本経済新聞出版社)ほか著書多数。

──一時期、妥結が危ぶまれましたが、TPPが2015年10月大筋合意に達しました。率直な感想をお聞かせください。

伊藤元重 氏

伊藤元重 氏

伊藤 日本の戦後の歴史をふりかえると、これほど大規模の経済連携協定を結ぶのはかつてないことであり、長期的にみて日本の経済構造に大きな変化をもたらすでしょう。アジア太平洋地域にとっても、TPPは数多くの国を巻き込む質の高い自由化協定といえ、地域経済の一体化がいっそう加速するはずです。

──甘利明・前TPP担当相はタフネゴシエーターと呼ばれリーダーシップを発揮したといわれていますが、どんな点に日本が努力した形跡が見受けられますか。

伊藤 安倍晋三首相は2013年3月にTPP交渉参加を表明しましたが、そもそも参加を決断したこと自体がとても大きな成果ではないでしょうか。国内のさまざまな利害調整を経て、甘利氏は隘路(あいろ)を縫うような交渉の妥結に尽力しました。さらに言えば、知的財産権の保護期間をめぐる話し合いにおいて、日本は知的財産権の強化を求める米国と途上国との間の調整役として、重要な役割を果たしました。

──近著『伊藤元重が語るTPPの真実』では、TPP合意が他の経済連携協定交渉に影響を与えると指摘されています。

伊藤 国際社会では、ひとつの経済交渉がまとまると他の交渉も進展するという性質があり、TPPをそうしたチェーンリアクション(連鎖反応)の観点から眺めると、中国、韓国、タイ、フィリピン、インドネシアなどの交渉非参加国の動向は気になるところです。事実、韓国、インドネシアはTPPへの参加意思を表明しています。また、日本はEU(欧州連合)とも経済連携協定交渉を行っており、進捗(しんちよく)が加速する可能性があります。

国全体の競争力を高める

──自由貿易の効果についての論争は古くからあるそうですね。

伊藤 貿易自由化のメリットを知らしめる上で大きな役割を果たしたのがアダム・スミスの『国富論』です。自由な経済活動が社会全体に好ましい結果をもたらすとされ、自由貿易を促進する理論的支柱として位置づけられていますが、自由貿易反対論も以前から根強くありました。貿易自由化は全ての人々に恩恵をもたらすわけではなく、マイナスの影響を及ぼす地域や産業もある。にもかかわらず、貿易の自由化がこれだけグローバルに進展してきたのは、一部の人々の不利益を上回るほどの利益を社会全体にもたらすと各国が判断してきたためです。

──TPP交渉参加の是非をめぐり、農業関係者を中心に反対の声が起こりました。

伊藤 反対している人たちの主な主張は、TPPにより海外から低価格の農産品が入ってくると、日本の農家は不利な状況に追い込まれるというものです。しかしながら近年、NAFTA(北米自由貿易協定)などの経済連携協定の成果が明らかになり、こうした見方が必ずしも正しくないことが明らかになってきました。農作物の貿易が自由化されれば、日本の農業の生産額が増え競争力が高まる可能性がある。つまり、競争力のない農家は厳しい状況に直面するが、競争力のある農家にとっては有利に働くわけです。事実、プロ農家といわれる人たちが各地に現れはじめています。農業にかぎらず工業、サービス業も含めて産業内でリシャッフリングが起こり、国全体で見れば国際競争力を高めることにつながるはずです。

──プロ農家とは?

伊藤 プロというと一部の限られた人という印象があるかもしれませんが、日本では上位9%の農家が国の60パーセントに当たる農作物を作っていて、この人たちはプロ農家といえるでしょう。一例を挙げると、長野県の川上村ではレタス栽培が盛んで、約7割の世帯がレタス農家として生計を立てています。村で収穫されたレタスの輸出促進のためのプロジェクトを立ち上げていて、台湾では「川上村レタス」という人気ブランドになっています。

──経営者のマインドに変化を与えるきっかけになりそうですね。

伊藤 人口減少が見込まれる国内市場のみをターゲットにすると、どうしても縮小思考にならざるを得ません。TPPの発効により単に関税が安くなって輸出入がしやすくなるだけでなく、投資や人の移動が活発になり日本の経済成長率を押し上げる可能性がとても高い。国内各地には食品以外にも陶磁器やタオルなど優れた特産品があり、海外で開催される展示会でも日本製品は人気があります。TPPをチャンスとして前向きにとらえてほしいと思います。

原産地はこう決まる

──日本製をうたうためには、生産地を明確に示す必要があります。海外の工場で組み立てた製品を販売している企業もありますが、原産地はどのように決まるのでしょうか。

伊藤 一般的に貿易自由化の取り決めとしては関税同盟と経済連携協定(自由貿易協定)の2種類があります。EUが採用しているのは関税同盟で、EUのどの国でも輸入製品には同一の関税が適用されます。ですから、ドイツがフランスから製品を輸入するとき、その製品がフランスで生産されているのかあるいは、日本で生産されてフランスに輸入されているのかといった点は区別する必要がありません。
 それに対してTPPなどの経済連携協定では、協定国間の関税は撤廃されるものの、第三国に対する関税は国によって異なることが認められます。日本とシンガポールは経済連携協定を結んでいますが、シンガポールから日本に輸出される製品全てが関税ゼロになるわけではありません。たとえば、中国で生産されてシンガポールに持ち込まれ日本に輸出された場合、シンガポール製とは見なされないため関税がかかります。関税をゼロにするためには大半の生産がシンガポールで行われたことを示す証明が必要です。

──原産地規則といわれるものですね。TPPにおける原産地規則の内容を教えてください。

伊藤 TPPでは交渉参加12カ国すべてをカバーする原産地規則が適用されます。加盟国のいずれの国で生産された部品であっても、原産地としてカウントされTPP税率が適用されるため、企業活動に大きなメリットがあります。結果として、TPP交渉に参加していないインドネシアやタイなどで生産された製品には割高の関税が課されることになり、早期の加盟検討を促す要因となるでしょう。
 ただ、原産地証明書を取得するには資料を作成して提出する必要があり、煩雑な手間を敬遠して関税上の特典を得ていない企業も存在するといわれています。TPP参加を機に、原産地証明書を簡単に作成できるプログラムを開発するソフトウエア会社も出てくるかもしれません。

──投資家と政府間の紛争処理を規定するISDS条項に対する懸念の声も聞かれましたが、どう決着したのでしょう?

伊藤 ISDS条項とは投資家と投資受け入れ国との間で投資紛争が起きたとき、投資家が国際的な仲裁機関に付託して紛争を解決する制度です。企業に国家を超える法的主体性を与えることになるため、国家主権がおびやかされるのではといった反対意見がありました。しかし、ISDS条項はこれまでも多くの投資協定や自由貿易協定に設けられており、日本もフィリピンを除くすべての経済連携協定でISDS条項を確保しています。
 国連貿易開発会議の資料によると、2012年末までに報告されたISDS条項に基づく仲裁申立件数は514件。最も多く訴えたのは123件の米国で、オランダ(50件)、イギリス(30件)が続きます。一方、訴えられた件数が多いのはアルゼンチン、ベネズエラなどの南米の国々です。日本はこれまでに訴えられたことはありません。アジア太平洋地域で投資をおこなっていく上で日本にとって投資保護につながるわけですから、TPPにISDS条項が盛り込まれたのはむしろ評価するべきでしょう。

焦点は米国の動向

──TPPの批准、発効までの道筋をどう占いますか。

伊藤 日本ではこれから国会で本格的に議論され、各国とも批准していくと思います。残る問題は米国です。全12カ国が批准しなくても、域内の85%以上のGDPを占める6カ国以上の批准で発効するとの規定があるにせよ、日米両国の批准は必須です。オバマ政権の間に批准手続きを進められるのか、それともレームダック化して次の大統領が引き継ぐことになるのかまだはっきりしていません。
 大統領予備選のまっただ中ですが、民主党はヒラリー・クリントン候補が、共和党ではドナルド・トランプ氏が優勢です。クリントン氏、または共和党のマルコ・ルビオ候補が大統領に就任するなら、批准はきっと進むでしょう。

──クリントン、トランプの両氏はTPPに反対を表明していますが……。

伊藤 そこはあまり心配ないと思います。クリントン元大統領も当初NAFTAの批准交渉に消極的でしたが、大統領に就任すると手のひらを返し交渉を進めました。選挙戦の最中は労働組合や利益団体の主張をおもんばかり、あまり踏み込んで議論できないものです。ですが、いざ大統領となり国益を最優先に考えればTPPに参加しない手はない。実際、米国国内でもTPPに賛同している業界の方が多いはずです。
 ただし、トランプ氏やバーニー・サンダース候補が大統領になった場合、発効までのゆくえは予断を許しません。なにしろトランプ氏はメキシコとの間に壁を築くと公言しているぐらいですから、TPPどころか米国の政策そのものがどう変化するのか予想がつかないですね。

(インタビュー・構成/本誌・小林淳一)

掲載:『戦略経営者』2016年4月号