従業員の健康状態に配慮する「健康経営」が叫ばれるなか、経営者に求められる新たな健康常識とは──。デジタル端末や怒りの感情との付き合い方など、手軽に実践できる健康管理法を専門家が解説する。

プロフィール
あまの・けいいち●1967年東京大学医学部卒。同大医学部脳神経外科入局後、米国エール大、カナダのマックギル大モントリオール神経研究所で脳科学を研究。帰国後東京大学医学部付属病院、東京警察病院等を経て、現在は東京脳神経センター、水戸中央病院で脳外来を担当。近著に『ボケたくなければバラの香りをかぎなさい』(ワニブックス)がある。

 近ごろ物覚えがわるくなり、しかも頭の中にインプットした事柄をなかなか思い出せない──。

いまどきの健康常識

 働き盛りのビジネスパーソンから相談を受けるケースが増えています。認知障害に類似するこうした症状を「オーバーフロー認知症」と私は呼んでいます。脳の限界容量をこえて情報を詰め込むから、脳が機能不全をきたしているのです。満員電車や過積載のトラックと同様の状態といえるでしょう。

 背景にあるのはインターネットの普及です。ネットの世界は玉石混交。ある意味、ゴミの山ともいえます。例えばガンと診断された場合、多くの人はネットで治療法を調べるはずです。治療法を片っ端から集めれば、まじないや宗教めいた事柄も紛れ込んでくるでしょう。いわゆるフェイク情報ですね。そしてより多くの情報を調べるほど正解にたどり着けると思い込み、やがて迷宮に迷い込むという悪循環を起こします。つまり、情報が常に足りないという妄想にとらわれる「情報過多シンドローム」に陥っているのです。

 ヒトの大脳には前頭葉、側頭葉、頭頂葉、後頭葉という四つの部位があり、前頭葉の一部である前頭前野は、脳の中枢をつかさどる司令塔の役割を果たしています。ゲームなどでスマートフォンの画面に没頭していると、周りの状況を認識できないといったことが起こります。このとき脳内で何が起こっているかというと前頭前野の一部しか使われず、感情をつかさどる側頭葉などが働いていない状態にあるのです。

 オーバーフロー認知症は脳のキャパシティーの問題のほか、脳の使い方も起因しています。ストレスにより脳内に不快や不信、不満などが渦巻いていると、脳が寝ても覚めてもそれらにかかりきりになってしまいます。こうした「不」の感情を想起させる記憶があるかぎり、脳のパフォーマンス向上は期待できませんから、マイナスの記憶はできるだけ捨て去らなければなりません。

脳内のゴミを捨てる方法

 では、いやな記憶を捨て去るにはどんな方法が有効でしょうか。

 まずおすすめしたいのは「芸術」に親しむこと。ピアノやギターなどの楽器を演奏したり、絵を描いてみる。あるいはコンサートを聴きにいったり、美術館で絵画を鑑賞するのもよいでしょう。そうした高尚な事柄でなくても、カラオケで歌うだけでもよい。これらに向き合っている最中、脳の中は空っぽになります。

 次に「スポーツ」です。走るのが難しい場合は、10分で1キロ進むぐらいの速さで歩くようにします。リズミカルな運動をすると、脳内の神経細胞からセロトニンが分泌することがわかっています。セロトニンは覚醒状態を維持する物質で、幸福ホルモンといわれるとおり、脳内のモヤモヤを消してハッピーな気分にしてくれる。分泌量が低下するとうつ状態になる場合もあります。

 また、一定のリズムでそしゃくしたり、しっかりとした呼吸運動をしてもセロトニンの分泌量は増えます。

 そして「自然」とふれあうのも脳内のゴミを捨てるのに役立ちます。例えば登山をして木々の緑を眺めたり、川のせせらぎや鳥のさえずりに耳を澄ます。なにも遠方まで出かけなくても身近に大自然があります。それは空です。たとえ曇り空でもじっと眺めれば、脳内がだんだんクリアになってくるのがわかるでしょう。

 五感のうち、嗅覚は最も原始的な感覚といわれ、認知症と密接な関係があります。認知症の初期段階では、匂いがよく分からなくなる症状が現れますが、脳の老化防止にはバラの香りが有効です。バラには14種類もの揮発性化学物質が含まれていて、側頭葉の嗅皮質と呼ばれる部分を刺激してくれます。脳には、われわれの想像をこえる優れた機能が備わっているのです。

出口を想定し情報収集する

 ここまで脳の働きについて縷々(るる)述べてきましたが、会社組織に当てはめて考えてみます。

 日本の1人あたり国内総生産(GDP)は先進国のなかで低く、生産性の向上が課題になっています。企業活動を支えているのは取りも直さず個々の社員の力です。その社員の脳が異常をきたし情報過多シンドロームに陥ると、適切な判断を下せなくなり、ひいては生産性や業績の低下をまねく要因となりかねません。

 現代の「情報過多社会」を生き抜くうえで心がけるべきは、情報を無目的にかき集めるのでなく、アウトプットすることを想定しながら収集することです。運送会社ではトラックに荷物を積みこむとき、配達ルートを考慮して効率的な順番で搬入しているといいます。あるいは金融機関から資金を調達する際、どう返済するかを考慮せずに借り入れを行う経営者はいないでしょう。

 私も日ごろパソコンやスマホで情報を調べたりしますが、シンプルな利用法を常に心がけています。信頼できるいくつかの情報源に絞り、情報をむやみに集めたりしません。本来、二つの事柄を同時に行うのは脳に適しませんから、テレビを見ながらスマホをいじったりするような「ながらIT」もさけるべきです。留学した米国の大学で教わった大事な教えのひとつに、〝物事を単純化するのが答えにたどり着く上で最も大切である〟があります。研究の実験手順をつくる際も、1本の直線で描けるモデルがベストなのです。

 仏教の世界には「足るを知る」という言葉があります。一般的にはぜいたくを戒める言葉として解釈されていますが、情報過多に対する先人たちの警告であると私は受けとめています。いにしえの時代から情報過多によるトラブルや混乱、争いが発生していたものと想像できます。

 日本人の情報との向き合い方が変わるきっかけになったのが第2次世界大戦における敗戦です。よく知られていることですが敗北の最たる要因は情報量の差にありました。米軍は高度のレーダー探知、暗号解読能力を備えていました。山本五十六が搭乗した飛行機が撃墜されたのも日本軍の暗号電文が米軍により傍受、解読されたためです。日本人は情報の持つ威力を思い知ることになり、情報信仰を強めていったのです。

 かつて日本では、社員運動会を開催する企業が数多くありました。ただ競い合うだけでなく、さまざまな社員の家族と会話したり交流したりすれば、脳はおのずと活性化します。社員間の親睦を深めるだけでなく個々の人間力を高める効用もあることに、経営者たちは気づいていたのではないでしょうか。日本の中小企業では同族経営が少なくありません。いわば社長室といえる前頭前野に過重な負荷をかけないよう、顧問税理士や社外取締役など、耳の痛い事柄を忠告してくれる部外者の存在も大切です。

 次世代通信規格である「5G」が日本にも遠からず導入されるといいます。情報を入手できるスピードがいっそう速まる分、不要な情報もどんどん押し寄せてくることでしょう。無目的なデジタルデバイスの利用には、くれぐれも注意しなければなりません。

(インタビュー・構成/本誌・小林淳一)

掲載:『戦略経営者』2019年8月号