従業員や顧客の心を動かし、相手にとって好ましい行動を促すにはどうすればいいのか。本特集では「ナッジ」や「仕掛学」をキーワードに、人が“能動的に”動く仕組みの作り方を考察する。

プロフィール
北野 浩之(きたの・ひろゆき)
医療機関向けコンサルティング会社、監査法人系コンサルティング会社を経て現職。主に、医療から健康・予防領域における民間企業の事業戦略の立案、新規事業化支援、マーケティング、ビジネスモデルのフィジビリティスタディー、行動変容モデルや個別化など次世代アプローチ手法の創出支援、国や自治体の実証事業等を中心にプロジェクトを推進している。
小林 洋子(こばやし・ようこ)
国際機関、外資系会計事務所を経て2006年6月より現職。心理学や行動経済学などの行動科学の知見を用いて人が行動しやすい環境を作り、社会課題や経営課題の解決を図る社内横断組織「行動デザインチーム」を立ち上げ、行動デザインコンサルティングを行っている。

行動経済学の理論に基づいた、自発的な行動を促すための手法である「ナッジ」。その概要と応用例を、NTTデータ経営研究所で行動デザインのコンサルティング業務に従事している北野浩之氏、小林洋子氏に聞いた。

──「ナッジ」とはどのような理論ですか。

「人を動かす」仕組みのつくり方

小林 ナッジは行動経済学の理論に基づいた、自発的な行動を促すための手法の一つです。人間は必ずしも合理的に意思決定したり、行動したりする生き物ではありません。買う予定はなかったけれどCMなどで見たことがある商品を無意識のうちに手に取っていたり、ダイエット中にもかかわらず食べ過ぎてしまったりと、非合理的な行動を取ることが少なからずあります。これは、なじみのあるものを過大評価してしまう「利用可能性ヒューリスティックス」、未来の満足よりも目の前の満足を優先させてしまう「現在バイアス」として知られています。このように、人間の非合理的な意思決定や行動を理論化した行動経済学を、ビジネスや日常生活をより良い方向に導くための手段として応用したものがナッジです。
 ナッジは「肘で軽く突くように、望ましい行動を自発的に選択するように促すこと」を意味することから、あらかじめ特定の選択肢を初期設定にしておく「デフォルト設定」、メッセージの表現を変える「フレーミング」(詳細は『戦略経営者』2023年10月号 P18)など、ちょっとした工夫で人の行動を促す手法が多いです。

コロナ禍でより身近なものに

──今、ナッジが企業活動や政策に積極的に活用されていますが、このような流れはいつ形成されたのでしょうか。

小林 行動経済学の研究そのものは古くから活発に行われてきましたが、企業活動や政策に応用されるようになったのは2010年代中盤あたりからです。転機となったのは17年に米国の経済学者であるリチャード・セイラー教授がノーベル経済学賞を受賞したこと。これにより、彼の研究分野であるナッジ理論が広く知れ渡りました。
 ナッジが脚光を浴びるようになったもう一つの要因がコロナ禍です。新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐために、国民の自主的な行動抑制(行動変容)を促す手段として、さまざまな場面でナッジが活用されるようになりました。例えばスーパーやコンビニといった小売店のレジ近くの床に、白線や足跡が一定距離ごとに描かれている光景を多くの人が目にしたのではないでしょうか。これはソーシャルディスタンスを促すための工夫で、「目印に従って並ぶ」という人間の習性を利用したものです。このように、コロナ禍はナッジが私たちにとって身近な存在になる一つのきっかけを作りました。

──ナッジを活用することでビジネスシーンにどのような効果が期待できますか。

北野 いろいろ考えられますが、一つは組織活動の円滑化が期待できます。実際に会社をより良い方向に導く手法として、また、部下との関係を良好にし、仕事のモチベーションを引き上げるための手法として、積極的に活用されています。例えば、部下に仕事を割り振るのが上手なマネジャーの特徴として、「○○と××と△△のうち、どれかをお願いしたいんだけど……」といったように選択肢を絞って提示することが挙げられます。人は選択肢を複数提示されるとどれかを選ぶ習性があり、反対に選択肢が無数にある状態だとかえって何も選べなくなることが多いです。選択肢を具体的に、かつ2~3個程度に絞って提示することで相手の承諾を引き出す──。ナッジをうまく活用して仕事を円滑に進めた好例です。

──マネジメント以外では?

北野 マーケティングとの相性も良く、商品やサービスの販売を後押しする効果が期待できます。特にBtoC向けのマーケティング戦略とナッジの相性は抜群です。人間が購買行動を取るときの“クセ”を理解すれば、消費者の購買意欲を喚起するための施策を打ち出すことができます。最近は職業や価値観、ライフスタイルなど、顧客像を具体的に設定したうえで最適な広告や販促手段を考える「ペルソナ」がマーケティングの主な手法です。漠然と大衆に向けて情報発信するだけではモノやサービスが浸透しないなか、顧客の購買意欲を呼び起こすために重要なのは、いかに個人の特性や嗜好に応じた販促施策を展開するか。これを実現するための仕掛けとして、ペルソナの設定に加えて、ナッジなどの行動デザインに注目する企業が増えつつあります。

手続き変更で育休取得を促進

──ナッジの応用事例を紹介してください。

北野 2つ紹介します。どれも小さな工夫で大きな成果を挙げた優れた事例です。

【事例①】健康経営の一環で従業員にウオーキングを促した例
 北海道のある中小企業では自治体が主催する健康経営プロジェクトに参加し、従業員に対して運動不足の解消と体力の増強を目的としたウオーキングを実施するように働きかけました。当初は実施者が1割にも満たなかったそうですが、社長が社員に一斉メールを発信したことで実施者が増加。運動習慣がなかった従業員の多くがウオーキングを定期的に実施するようになり、病気の発症率も未実施者に比べて改善したそうです。
 実施者が急増した要因は社長が送ったメールの文面にあります。メールには①運動不足によって直面するリスクについての説明②自社および他社のウオーキング実施状況──などが記載されており、それぞれ「プロスペクト理論」(人は損失やリスクを避けようとする習性があること)、「同調効果」(詳細は『戦略経営者』2023年10月号 P19)といったナッジが仕掛けられています。

【事例②】育休の取得率を向上させた例
 ある自治体では育休の申請手続きを変更したことで男性職員の育休取得率が大幅に向上しました。その方法が「育休を“取得しない”場合に申請書の提出を求める」というもの。つまり、配偶者の出産後は申請なしで休暇を取得できるようにし、どうしても取得できない場合のみ申請を求めるようにルールを変えたのです。ここで用いられているのが選択肢の提示方法を変える「デフォルト変更」で、手続き方法を変えたことより当初1桁台だった取得率が3割超までに上昇しました。自治体の取り組みではありますが、民間企業でも実践できる優れた事例です。

倫理観に配慮した使い方を

──ナッジを業務に取り入れる際の注意点を教えてください。

小林 まず前提として、ナッジは本人にとってプラスになる行動を促すために使われるべき手法ですから、倫理的に問題になるような使い方は厳禁です。本人の利益が損なわれるような行動や、自社商品の売り込みなど行動を促す側にとってのみ都合の良い選択に導くために使うものではありません。
 相手に誤解を与えるような使い方もNGです。例えばサービスの解約方法を複雑にしたり、無償期間終了後に何の告知もなく有料会員に移行したりといった手法は「ダークパターン」と呼ばれ、実際にある大手ECサイトが「ダークパターンを使って違法に有料会員へ登録させている」として、米国連邦取引委員会の提訴を受けました。このように、意図的に相手に不利になるよう仕向けることはナッジの本来の使い方とはかけ離れているので注意してください。

──最後に中小企業経営者に一言メッセージを。

小林 ナッジを身の回りの業務に取り入れる際のポイントはどう行動すべきかではなく、誰しもがもつ「人間の非合理性」を前提にすること。「体力の低下を自覚しているが面倒なので運動しない」「忙しいので育休を取得できない」といったように、生身の人間がいかなるジレンマを抱えているかを理解し、それを克服するためにはどんな仕組みがあれば行動しやすくなるかを具体的に検討することが重要です。
 ナッジは資金や人員といった経営資源が豊富でなくても、言葉の使い方や表現の工夫次第ですぐに実践できます。まずは行動経済学の理論に関心を持ち、トライ&エラーを繰り返しながら業務に取り入れることをお勧めします。

(インタビュー・構成/本誌・中井修平)

掲載:『戦略経営者』2023年10月号